くるくる回るものが好きだ。

近藤文恵「サクリファイス」2007

サクリファイス (新潮文庫)

サクリファイス (新潮文庫)

かちり、とシューズがビンディングペダルにはまった。
こぎ出す瞬間は、少し宙に浮くような、頼りない感覚。だが、それは二、三度ペダルを回すだけで消える。
ホイールは、歩くより軽やかに、僕の身体を遠くまで運ぶ。サドルの上に載った尻など、ただの支えだ。緩やかに回すペダルと、ハンドルで、ぼくの身体は自転車と繋がる。
この世でもっとも美しく、効率的な乗り物。
最低限の動力で、できるだけ長い距離を走るために、恐ろしく計算され尽くした完璧なマシン。これ以上、足すものもなく、引くものもない。空気を汚すことすらないのだ。
自転車の中でも、より速く走るためだけに、ほかのすべての要素をそぎ落としたのが、ロードバイクだ。

この小説の語り手、ロードレースの選手である白石誓は、自転車の美を上のように評している。
僕の思う自転車の美点は、「漕げば走る」ということである。
しかし一番の美点は、「漕がなければ走らない」ということだ。
走らないどころではない。漕がなければ、自立することも出来ない。
漕がない自転車の不安定なことと言ったら、まるで足のついていないワイングラスのようだ。
ところが二、三度ペダルを回してしまえば、すぐに美しい動的平衡が生まれる。
僕が愛するのは、自転車のそのような性質である。


実は自転車に限らず、僕は回るものが好きだ。
アナログ時計。山手線。レコード。ルーローの三角形。ダンスにリズムに銀河系。
回転し、旋回し、周回し、転回し、巡回し、自転しながら公転するもの。
くるくる回って、ひらりと滑り、飛んでいったかと思えば、弧を描いて戻ってくる。
僕はそういうものには必ず心奪われてしまう。
ジブリ美術館にあったトトロが回転する立体アニメなんか、2時間見ていても飽きない。
「こま」の漢字に「独楽」を当てたのは、多分僕と同じ種類の人間だろう。



回るものにどうしてそんなに心惹かれてしまうのだろう?
それはきっと僕が、このまわる地球の上で、うつろいゆく四季を感じ、循環する自然を見ているからだ。


地表に降り注いだ雨は地中に染み入って地下水脈を作り、やがて地表に出て細い河川となる。
やがていくつも支流から大河へと合流し、奔流の中で大海へ出る。
海流を巡るうちに蒸発した水蒸気は、低気圧の上昇気流に乗って遥かな上空へと運ばれる。
急激に冷やされて飽和水蒸気量を越えた水分は雲となる。
発達した積乱雲の中で上下した水滴も、やがて自重に堪えられなくなり地表へと落下する。


美しいと感じられるのは、そのような永久運動を繰り返す水である。
ドブで堰止められ、淀んでいる水を愛することは出来ない。


生まれては育ち、育っては子供を産む動植物も、後代に遺伝情報を残しながらぐるぐると回っていると言える。
水も、生命も、愛も、お金も、情報も、エネルギーも、僕らが必要としているのはすべて、くるくると僕らの間を回転している。
回るものが善であり、それを堰止めるものが悪である。



ロードレースの選手たちは、くるくると先頭を交代しながら走り続ける。
先頭を引く者は、大きな空気抵抗を受けるために、大変なエネルギーを消耗してしまうからだ。
ぐるりとコースを回って、またスタート地点に戻ってきた選手たちを、観客たちは熱狂で迎え入れる。
ロードレースは美しいスポーツなのだ。