自分の娘が売春婦になることを想像せよ。

伊集院静「乳房」1990

乳房 (講談社文庫)

乳房 (講談社文庫)

「お母さんが、今、警察の人に連れて行かれちゃったの。姉さん、すぐに来て!」
冴子の元に、妹から連絡が入る。
母親が逮捕された。しかも容疑は売春。六十を超えた母が?売春?
「そんなこと、ある訳ないじゃないの!」と冴子は叫ぶ。
しかし、母は警察の言うことに素直に従って連行されていったと言う。


冴子の母親は、三業地で郭の経営を行っていたのだ。
そんなことはやめてくれと懇願する冴子に、母親は言う。
「あともう少しだから。もうすぐ、みんなの借金が返せるのだから、少しだけ見守ってて欲しい」
郭で働く女性たちは、みなそれぞれに事情があり、彼女たちを路頭に迷わせるわけにはいかないのだと言う。



僕は職業に貴賎はないと思っている。
どんな職業でも、必要とされているから職業として成り立っているのだ。


しかし、と僕は想像する。
もしも自分に娘が生まれて、その娘が売春婦になりたいと言ったら、どうするだろう。
お金の為に嫌々やるのだと言えば、娘が身体を売らなくても生活出来るような環境を整えてやりたいとは思う。
だが娘が、好き好んでその職業を選ぶのだとしたら?


きっと僕は反対するだろう。
しかし何と言って?
売春はモラルに反する犯罪行為だから?
誇りの無い屈辱的な仕事だから?
危険で大変な仕事だから?


売春が売春防止法で禁止されている犯罪行為である。
(ただしこの法律は売春の周旋行為や、場の提供を禁じたもので、売春行為そのものには罰則はない)


売春防止法の第一章第一条には、売春は「人としての尊厳を害し、性道徳に反し、社会の善良の風俗をみだすもの」であると書かれている。


しかし、本当に売春はモラルに反しているのだろうか。
どこにも被害者が居ない犯罪なんて、おかしくはないか。


市場原理においては、当人同士が同意の上で、自分の肉体を使って対価を得る、ということは正当なことで、どこにも問題はない。
売春が問題になるのは、市場原理ではなく、家族原理においてだ。
家族関係というのは、金銭ではなく、エロス的な交換が成り立つ関係を言う。
家族原理においては、肉体も性行為も金銭ではなく、エロスによって交換されるべきものだ。
その基準に立てば、売春婦は存在そのものが危険だ。


すなわち、「売春はモラルに反するのかどうか」という議論は、「市場原理」と「家族原理」の闘いなのである。
それらの原理はいずれも社会生活に欠かすべからざるものだ。
どちらが正しいのかなんて議論に答えが出る訳が無い。



売春は確かに危険で、大変な仕事だということはあるだろう。
しかし、兵士や、F1レーサーや、原発職員とまではいかなくても、どのような仕事だってある程度の危険と、困難があるものだ。
そしてその度合いが高いほど、使命感が強く働く。


僕はそのように使命感を持って働くまばゆいばかりに輝く娘の姿を見て、恥ずかしい職業だなんて本当に言えるだろうか。


僕は自分の娘に、「自分にしか出来ない困難な仕事」より、「誰にでも出来る楽な仕事」を職業に選んで欲しいと思っているのだろうか。
それも親心だろう。
だが自分の娘に退屈な人生を願うなんて、つまらない親である。


僕は、最後には認めてしまうかもしれない。
自分の娘が身体を売って生活することを。
娘が決定的に傷付いてしまわないことを祈りながら。



すべての人は、自分の娘が売春婦になった時のことを想像するべきだ。
それでも人は売春婦を侮辱出来るだろうか。
彼女たちを取り巻く環境が改善し、
少しでも安全に快適に働けるようになることを、僕は切に願う。