僕の生活も、27パーセントは嘘だった。

■赤ひげ
黒澤明監督/1965/日本

赤ひげ [DVD]

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おなかは涙ながらに、佐八の前から姿を消した理由を話す。
実はおなかには、佐八の他に将来を約束した男があったのだった。
いや、「約束」というのは正確ではないのかもしれない。
一方的に惚れられて、もう十六七の頃から実家に資金援助を申し出てくれていた男が居たのだ。


「その人は二十歳になると、はっきりあたしが欲しいと言い、親も喜んでそれを承知しました。
 あたし、その人が好きでも嫌いでもなかったけど、うちにしてもらったことを考えて、
 それでもいいと思っていました。その時あなたに逢ってしまったんです。
 あたし、どうしていいか分からなかった。
 その人には済まない、そうかといってあなたとは別れられない。
 でもあたし、とうとう心を決めました。恩義は恩義。
 それはそれで、どうにでもして返せるもんだと決心してしまったら、
 あたし、自分でも怖いほど強くなって、親にぶたれて、泣きつかれても、強情を通しました」


「そのお前がどうして」


「あなたとの暮らしが幸せすぎました。あんまり幸せすぎて、何だか空恐ろしいほどでした。
 あたしが、あたしのようなもんが、こんなに幸せでいいはずがない。
 このままではきっと、罰が当たる。そう思って、いつもおどおどしていました。


 そして、あの地震※です。


 やっぱりそうだった。これが罰なんだ。あたしはもう、人の一生分も幸せに暮らした。
 この地震が、区切りを付けろというお告げなんだ。
 うちの人も、あたしがこの地震で死んだと思うに違いない。
 それで、けりが着く。けりを着ける時が来たんだ。
 そう思い詰めながら、ふと気付くと、あの人の家の前に立っていたんです」
 

「分かるよ。分かるよ。俺には、お前の気持ちが手に取るように分かるよ」


「それからあたし、腑抜けのようになって、ずるずるとあの人のものになりました。
 浅草の観音様であなたに会った時、急に目が覚めたように、何だか神隠しにあっていたのが、
 いきなり自分のうちの前に立たされたみたいな気持ちがしました。
 あの人と子供のいるあたし、どこか遠くに行ってしまった別の人のような気持ちなんです。
 でも、ここにいるあたしは、本当のあたしよ。抱いて。お願い、もっと強く抱いて。
 離さないで。あたしを離さないで」


この場面、涙なくしては見ることが出来ない。
おなかは未曾有の大災害を経験した後、
「今までの暮らしは嘘だったんじゃないか」と考えた。
この部分、現在の日本においては強く共感できる人が多いんじゃないだろうか。
捨てられた当の本人である佐八でさえも、「よく分かるよ」と強く頷いている。


あの地震の前に、この映画を観たとしたら、
「何で地震くらいで、今までの自分を見失っちゃうんだ?
地震くらいで見失うなら、その程度の生き方でしかなかったんじゃないか?」
と思っていたかもしれない。


だが、僕も完全に見失った。
地震の起こった翌日、何も手につかなかった。
逃げようとも思わなかったし、被災者の人たちの為に何かを始めようとも思わなかった。
哀しくもなかったし、怒りも沸いてこなかった。
何を感じればいいのかも分からないまま、流れるニュース映像をただボーッと観ていた。


今まで正直に、一生懸命に生きてきた人ほど、
「これまでの暮らしは嘘だったんじゃないか?」と自問自答しているような気がする。



地震のせいで、哀しいことがいっぱい起こったし、その苦しみは今も続いている。
だが、地震のお陰でハッキリしたこともある。


手に職を付ければ一生安泰だと思っていた。
お金があれば幸福になれると思っていた。
水と電気と安全は無料だと思っていた。
誰かを蹴落とせば、その分だけ自分が上に行けると思っていた。
学歴や、名誉や、収入が、人間の価値を決めると思っていた。
東北地方なんてめったに行かないから、自分の生活とはあまり関係が無いと思っていた。
何となく、平均寿命くらいまでは生きられると思っていた。
永田町のパワーゲームを政治だと思っていた。


みんな嘘だった。
今まで何となく怪しいな、と思われていたものは、ことごとく化けの皮を剥がされた。


地震の後、それにハッキリ気付いた人の多くは、
「じゃあオレの(わたしの)人生も嘘だったんじゃないか?」と考えたはずだ。
今までの生活を微塵も疑いもせず、震災前の生活をそのまま続けられた強い人は尊敬に値する。
だが、僕は見失ってしまった人にこそ、憐憫と共感を感じる。


僕は地震が起こった次の日から節電を始めた。
104kw 2150円だった電気代は、翌月には76kw 1657円になった。
僕の生活も、27パーセントは嘘だったということだ。


今からでも遅くない。
本当の生活を始めよう。


※「乙未(きのとひつじ)の年の地震」と言っているので、
 おそらく1835年(天保6年)に発生した宮城県沖地震のことであろう。
 1835年の後、宮城県沖を震源地とする地震は、
 1861年、1897年、1936年、1978年、2011年とほぼ30年周期で発生している。