世界中の愛を合わせても足りない。

■クレイジーホース・パリ 夜の宝石たち
フレデリック・ワイズマン監督/2011/仏・米/原題:CRAZY HORSE


彼女のことを想う度に、僕はそれを小説にしたいと考える。
いや、いっそのこと、彼女をそっくりそのまま言語化できたら、とさえ思う。
キャロルがアリスを、ナボコフがロリータを、モンゴメリがアンを言語化したように。


しかし彼女に会う度、その不可能性に打ちのめされる。
彼女はあまりに物理的で、 アナログで、非言語的なのだ。


彼女を言語化するには、彼女を愛していなければならない。

だが、世界中の愛を合わせても足りない。


彼女を言語化するのに必要なのはきっと、「過剰な愛」だろう。
それは偏執や、憎悪、劣情、崇拝などという形を取って表れるもので、最早「愛」ではない。
彼女との間に愛があったとしても、過剰な愛があった例しはない。


古来より、恋愛が多くの優れた詩歌や音楽を生んだことは事実だ。
しかし、それは愛が不完全なものであるが故だ。
愛が完成された世界では、すべての表現が効力を失う。愛そのものさえ消えてなくなる。

しかし、この地上においてはまだ、愛の完成したという報告はない。
バビロンが存在し、そこに我々が生きていること自体がその証左だ。
もしも愛が完成した世界が訪れたとしたら、バビロンは破壊されるまでもなく、その意味を消失するだろう。
いやそれどころか、この地上そのものが無くなり、生の概念までもが相対化し尽くされてしまうことになる。

我々の生とは、決して完成されることの無い愛を求めて地上を彷徨するという、無為なものだ。
愛が完成されたその瞬間に、生は消えてなくなる。
「愛」の対義語は「憎」ではなく「生」であり、だから「愛」の同義語は「死」であるはずなのだ。



「クレイジーホース」の舞台監督、アリ・マフダビは、
「その素晴らしさを表現するのには、世界中の愛を合わせても足りない」と語った。
それは全く正しい。
表現を促すのは愛そのものではなく、愛の未完成や、消失や、拒絶なのだ。
愛そのものは表現を拒み続けるものなのだ。