希望より熱く、絶望より深いもの。

◼︎劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [前編] 始まりの物語
◼︎劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [後編] 永遠の物語

新房昭之総監督/2012/日本

インキュベーターは魔女について、「願いから生まれるのが魔法少女だとすれば、魔女は呪いから生まれた存在なんだ」と説明する。
そして魔女が出現しやすい場所として、繁華街や病院、あるいは高いビルや橋を挙げる。
つまり、犯罪や病気、自殺、自然災害などの「災厄の機縁となるもの」が、「魔女」と名付けられている訳だ。

自然科学の発展によって、僕らはこれらの災厄が「魔女の妖術」によるものではない、ということを識っている。
だが15〜16世紀における「世界観」では、それは常識ではなかった。
魔女狩りの嵐が吹き荒れた当時、ヨーロッパや、一部のアジア地域などでは、「魔女が居た」のだ。

「居た」と言っても、もちろん実際に物理的に存在したということではない。
災厄の原因が魔女の妖術であると多くの人が解釈していた、ということだ。
彼らは魔女を火炙りにすることによって共同体に溜まった澱を消し去り、共同体の恒常性を維持していた。

インキュベーターが看破した通り、魔女の存在はエントロピーを縮減させる。
魔女は「宇宙(共同体)の寿命を延ばす」ために、必要不可欠な存在なのだ。
それは魔法の使用や日々の生活によって穢れが溜まり、魔女を倒すことでまた輝きを取り戻すソウルジェムによっても象徴されている。

翻って、まどかの願い事について考えたい。
「すべての宇宙で、過去と未来のすべての魔女を、生まれる前に消し去りたい」という願い———これは、一体何を意味するのか。
魔女とは災厄の端緒であり、呪いから生まれた存在であり、またそれ故に共同体の存続を担保するスケープゴートの象徴でもある。

改めて説明するまでもなく、社会に秩序が齎される時、その背後には必ず暴力がある。
それは軍隊だったり、警察だったり、あるいは刑務所、死刑制度、いじめ、差別、ヘイトスピーチ、DV、自殺、経済格差などなど、いろいろな形をもって現れる。
僕らが享受しているこの安寧秩序は、「正義の名の下に魔女を処刑する」という暴力行為によって保たれている訳だ。

その魔女について、「存在する前に消し去りたい」というのは、恐らく誰しもが誇大妄想的に夢想する、「理想の社会の実現」に他ならないだろう。
物理法則を無視して「自由に空を飛びたい」と考えるのと同じように、エントロピーの法則を無視し、暴力無しで平和を手に入れたいというような虫のいい願いなのだ。

まどかの願いは因果律を拒絶し、物理法則を凌駕し、時空さえも超越している。
そこに結実するのは、文明も生まれず、それ以前に生物も誕生せず、いやこの宇宙の秩序さえも否定するような世界ではないだろうか。
理想として掲げられていたはずの世界は、僕らの想像力の及ぶ範囲をとっくに飛び越えている。

果たして暴力の無い世界に平和はあるのか。
痛みの無い世界に悦びはあるのか。
絶望の無い世界に希望は生まれるのだろうか。

暁美ほむらは「希望より熱く、絶望より深いもの」を、「愛」と呼んだ。
愛の完成した世界は果たして、美しいのだろうか。