人はただ、弱いだけなんだ。

◼︎ドッグヴィル

ラース・フォン・トリアー監督/2003/デンマーク

寛容を訴えながら、優越感に浸ることでしか他人を愛せないトム。

臆病な為、気が弱く猜疑心が強いが、安全な場所からは急に攻撃性を発揮させるビル。

村人たちの性的な視線を不快に思っていながら、それを奪ったグレースに嫉妬するリズ。

目が見えないことを恥じて、それを隠そうとし、今までに見た風景のことばかりを語るジャック。

少ない給料から娼婦を買うことだけを生き甲斐にしているが、そのことを恥じているベン。

プライドの高さから無口になって周囲をバカにし、心の底にルサンチマンを溜め込んでいるチャック。

夫や子供たちを愛するあまりに盲目状態になり、その教育熱心さから独善的になるヴェラ。

盲目的に戒律やルールに従うあまり、音を出さずにオルガンを弾き続ける教会の管理人マーサ。

村に一軒しか店が無いことをいいことに、高い値段で商品を売り続けるジンジャー夫人。

傲慢、嫉妬、憤怒、怠惰、強欲、暴食、色欲———あらゆる負の感情に支配され、罪にまみれ、恥辱に汚れ、それでもそれを正すことの出来ない弱く哀しい "ドッグヴィル" の村人たち。

僕は彼ら全員を、自分自身のように感じていた。


お人好しの僕は、性善説を信じている。
邪悪な人間なんて居ない。話せば分かる。相手に対して敬意を払えば、相手も自分に敬意を払ってくれるはずだ。———そんな風に思い込んでるところがある。

「敬意」を「愛」と言い換えてもいい。
誰かを心から愛すれば、相手は必ずそれに応えてくれる・・・と、僕はそう考えている。
証明することは不可能だが、経験が僕にそう告げる。

もしもこの愛が通じなかったとしたら、僕は相手を恨むのではなく、自分の愛の力が足りなかったんだと考えることにしている。


グレースは最終的に、住人を皆殺しにし、村を消滅させるという決断を下した。
それは分かち合うことを諦めたという意味で絶望的な決断に見える。
だがある意味で、それは愛の発露のひとつの形態だとも言える。

それまでのグレースは、表面的には従順で、献身的であったかもしれない。
しかし実際には、相手の理性や成長を微塵も信じていなかったという点で傲慢であった。

彼女は、村人のことを、犬のようなものだと思っていたのだ。

ドッグヴィル(犬の村)の住人たちは、飢えれば食べ、疲れれば眠り、欲情すれば犯し、恐怖すれば怯えて噛みつき、それでいてそんな自分達を正当化して、責任を取らない。

しかし、犬というのはそういうものだ。

犬のやったことに対して本気で腹を立てたり、悲しんだり、反撃したりするのは、無意味なことだ———グレースはそう考えていた。

しかし、「犬のようなもの」と見下していた村人たちに対し、最後の最後に罰を与えた。
彼らに対して、自分と同じ倫理レベルを要求し、自分と同じレベルの罰を与えるということは、決して残酷なことではない。
深い慈愛に満ちた、暖かな愛の現れだろう。

赦すのか。罰するのか。
グレースには二つの選択肢しか残されていなかった。
それがグレースの不幸だ。
いずれを選んでも、傲慢さからは逃れられない。
相手を赦すのも傲慢。罰するのも傲慢。グレースはその狭間で苦悩し、自らの宿命を哀しんだ。


一方、グレースが村人たちに敬意を払われなかったのは、グレースもまた、相手に敬意を払っていなかったことが原因だ、とも考えられる。

嫌なことを嫌だと伝える、ということも、相手に敬意を払うことのひとつだ。
それは相手に意思があり、自分に感情があり、それを分かち合いたいと思っているという意思表示であるからだ。

グレースは、どうせ「犬」には分かるはずはないと、自分の意思を伝えることを最初から諦めていたのだ。


相手に対して敬意を払えば、相手も自分に敬意を払ってくれるはずだと考えている僕に対して、周りの人たちは言う。

お前は育ちがいいお坊ちゃんだな。
お前はラッキーだったんだな。
本当の絶望を知らないんだな。
綺麗事ばかり言いやがって。
お前が愛を返してもらえるのは、若くてイケメンだからだろう。
そんなに他人のことを信頼してたら、いつか痛い目を見るぞ。

実際、僕は人生経験が足りなくて、そんなに痛い目に遭わされたことがない。
(実際は、そんなに若くもイケメンでもない。)
相手を、愛して、尽くして、信頼して、とことんまで身を投げ打って、その結果、手酷く裏切られたという経験が無い。

その瞬間がやってきた時、僕はどうするだろうか?
僕も、"ドッグヴィルは地上から消しさらなければならない"と、村人たちを惨殺するだろうか。

邪悪な人間が相手だったら、皆殺しにすることでカタルシスを得られたかもしれない。
しかし邪悪な人間なんて、どこにも存在しない。
人間はただ、弱いだけなんだ。