希望より熱く、絶望より深いもの。

◼︎劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [前編] 始まりの物語
◼︎劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [後編] 永遠の物語

新房昭之総監督/2012/日本

インキュベーターは魔女について、「願いから生まれるのが魔法少女だとすれば、魔女は呪いから生まれた存在なんだ」と説明する。
そして魔女が出現しやすい場所として、繁華街や病院、あるいは高いビルや橋を挙げる。
つまり、犯罪や病気、自殺、自然災害などの「災厄の機縁となるもの」が、「魔女」と名付けられている訳だ。

自然科学の発展によって、僕らはこれらの災厄が「魔女の妖術」によるものではない、ということを識っている。
だが15〜16世紀における「世界観」では、それは常識ではなかった。
魔女狩りの嵐が吹き荒れた当時、ヨーロッパや、一部のアジア地域などでは、「魔女が居た」のだ。

「居た」と言っても、もちろん実際に物理的に存在したということではない。
災厄の原因が魔女の妖術であると多くの人が解釈していた、ということだ。
彼らは魔女を火炙りにすることによって共同体に溜まった澱を消し去り、共同体の恒常性を維持していた。

インキュベーターが看破した通り、魔女の存在はエントロピーを縮減させる。
魔女は「宇宙(共同体)の寿命を延ばす」ために、必要不可欠な存在なのだ。
それは魔法の使用や日々の生活によって穢れが溜まり、魔女を倒すことでまた輝きを取り戻すソウルジェムによっても象徴されている。

翻って、まどかの願い事について考えたい。
「すべての宇宙で、過去と未来のすべての魔女を、生まれる前に消し去りたい」という願い———これは、一体何を意味するのか。
魔女とは災厄の端緒であり、呪いから生まれた存在であり、またそれ故に共同体の存続を担保するスケープゴートの象徴でもある。

改めて説明するまでもなく、社会に秩序が齎される時、その背後には必ず暴力がある。
それは軍隊だったり、警察だったり、あるいは刑務所、死刑制度、いじめ、差別、ヘイトスピーチ、DV、自殺、経済格差などなど、いろいろな形をもって現れる。
僕らが享受しているこの安寧秩序は、「正義の名の下に魔女を処刑する」という暴力行為によって保たれている訳だ。

その魔女について、「存在する前に消し去りたい」というのは、恐らく誰しもが誇大妄想的に夢想する、「理想の社会の実現」に他ならないだろう。
物理法則を無視して「自由に空を飛びたい」と考えるのと同じように、エントロピーの法則を無視し、暴力無しで平和を手に入れたいというような虫のいい願いなのだ。

まどかの願いは因果律を拒絶し、物理法則を凌駕し、時空さえも超越している。
そこに結実するのは、文明も生まれず、それ以前に生物も誕生せず、いやこの宇宙の秩序さえも否定するような世界ではないだろうか。
理想として掲げられていたはずの世界は、僕らの想像力の及ぶ範囲をとっくに飛び越えている。

果たして暴力の無い世界に平和はあるのか。
痛みの無い世界に悦びはあるのか。
絶望の無い世界に希望は生まれるのだろうか。

暁美ほむらは「希望より熱く、絶望より深いもの」を、「愛」と呼んだ。
愛の完成した世界は果たして、美しいのだろうか。

人はただ、弱いだけなんだ。

◼︎ドッグヴィル

ラース・フォン・トリアー監督/2003/デンマーク

寛容を訴えながら、優越感に浸ることでしか他人を愛せないトム。

臆病な為、気が弱く猜疑心が強いが、安全な場所からは急に攻撃性を発揮させるビル。

村人たちの性的な視線を不快に思っていながら、それを奪ったグレースに嫉妬するリズ。

目が見えないことを恥じて、それを隠そうとし、今までに見た風景のことばかりを語るジャック。

少ない給料から娼婦を買うことだけを生き甲斐にしているが、そのことを恥じているベン。

プライドの高さから無口になって周囲をバカにし、心の底にルサンチマンを溜め込んでいるチャック。

夫や子供たちを愛するあまりに盲目状態になり、その教育熱心さから独善的になるヴェラ。

盲目的に戒律やルールに従うあまり、音を出さずにオルガンを弾き続ける教会の管理人マーサ。

村に一軒しか店が無いことをいいことに、高い値段で商品を売り続けるジンジャー夫人。

傲慢、嫉妬、憤怒、怠惰、強欲、暴食、色欲———あらゆる負の感情に支配され、罪にまみれ、恥辱に汚れ、それでもそれを正すことの出来ない弱く哀しい "ドッグヴィル" の村人たち。

僕は彼ら全員を、自分自身のように感じていた。


お人好しの僕は、性善説を信じている。
邪悪な人間なんて居ない。話せば分かる。相手に対して敬意を払えば、相手も自分に敬意を払ってくれるはずだ。———そんな風に思い込んでるところがある。

「敬意」を「愛」と言い換えてもいい。
誰かを心から愛すれば、相手は必ずそれに応えてくれる・・・と、僕はそう考えている。
証明することは不可能だが、経験が僕にそう告げる。

もしもこの愛が通じなかったとしたら、僕は相手を恨むのではなく、自分の愛の力が足りなかったんだと考えることにしている。


グレースは最終的に、住人を皆殺しにし、村を消滅させるという決断を下した。
それは分かち合うことを諦めたという意味で絶望的な決断に見える。
だがある意味で、それは愛の発露のひとつの形態だとも言える。

それまでのグレースは、表面的には従順で、献身的であったかもしれない。
しかし実際には、相手の理性や成長を微塵も信じていなかったという点で傲慢であった。

彼女は、村人のことを、犬のようなものだと思っていたのだ。

ドッグヴィル(犬の村)の住人たちは、飢えれば食べ、疲れれば眠り、欲情すれば犯し、恐怖すれば怯えて噛みつき、それでいてそんな自分達を正当化して、責任を取らない。

しかし、犬というのはそういうものだ。

犬のやったことに対して本気で腹を立てたり、悲しんだり、反撃したりするのは、無意味なことだ———グレースはそう考えていた。

しかし、「犬のようなもの」と見下していた村人たちに対し、最後の最後に罰を与えた。
彼らに対して、自分と同じ倫理レベルを要求し、自分と同じレベルの罰を与えるということは、決して残酷なことではない。
深い慈愛に満ちた、暖かな愛の現れだろう。

赦すのか。罰するのか。
グレースには二つの選択肢しか残されていなかった。
それがグレースの不幸だ。
いずれを選んでも、傲慢さからは逃れられない。
相手を赦すのも傲慢。罰するのも傲慢。グレースはその狭間で苦悩し、自らの宿命を哀しんだ。


一方、グレースが村人たちに敬意を払われなかったのは、グレースもまた、相手に敬意を払っていなかったことが原因だ、とも考えられる。

嫌なことを嫌だと伝える、ということも、相手に敬意を払うことのひとつだ。
それは相手に意思があり、自分に感情があり、それを分かち合いたいと思っているという意思表示であるからだ。

グレースは、どうせ「犬」には分かるはずはないと、自分の意思を伝えることを最初から諦めていたのだ。


相手に対して敬意を払えば、相手も自分に敬意を払ってくれるはずだと考えている僕に対して、周りの人たちは言う。

お前は育ちがいいお坊ちゃんだな。
お前はラッキーだったんだな。
本当の絶望を知らないんだな。
綺麗事ばかり言いやがって。
お前が愛を返してもらえるのは、若くてイケメンだからだろう。
そんなに他人のことを信頼してたら、いつか痛い目を見るぞ。

実際、僕は人生経験が足りなくて、そんなに痛い目に遭わされたことがない。
(実際は、そんなに若くもイケメンでもない。)
相手を、愛して、尽くして、信頼して、とことんまで身を投げ打って、その結果、手酷く裏切られたという経験が無い。

その瞬間がやってきた時、僕はどうするだろうか?
僕も、"ドッグヴィルは地上から消しさらなければならない"と、村人たちを惨殺するだろうか。

邪悪な人間が相手だったら、皆殺しにすることでカタルシスを得られたかもしれない。
しかし邪悪な人間なんて、どこにも存在しない。
人間はただ、弱いだけなんだ。

世界中の愛を合わせても足りない。

■クレイジーホース・パリ 夜の宝石たち
フレデリック・ワイズマン監督/2011/仏・米/原題:CRAZY HORSE


彼女のことを想う度に、僕はそれを小説にしたいと考える。
いや、いっそのこと、彼女をそっくりそのまま言語化できたら、とさえ思う。
キャロルがアリスを、ナボコフがロリータを、モンゴメリがアンを言語化したように。


しかし彼女に会う度、その不可能性に打ちのめされる。
彼女はあまりに物理的で、 アナログで、非言語的なのだ。


彼女を言語化するには、彼女を愛していなければならない。

だが、世界中の愛を合わせても足りない。


彼女を言語化するのに必要なのはきっと、「過剰な愛」だろう。
それは偏執や、憎悪、劣情、崇拝などという形を取って表れるもので、最早「愛」ではない。
彼女との間に愛があったとしても、過剰な愛があった例しはない。


古来より、恋愛が多くの優れた詩歌や音楽を生んだことは事実だ。
しかし、それは愛が不完全なものであるが故だ。
愛が完成された世界では、すべての表現が効力を失う。愛そのものさえ消えてなくなる。

しかし、この地上においてはまだ、愛の完成したという報告はない。
バビロンが存在し、そこに我々が生きていること自体がその証左だ。
もしも愛が完成した世界が訪れたとしたら、バビロンは破壊されるまでもなく、その意味を消失するだろう。
いやそれどころか、この地上そのものが無くなり、生の概念までもが相対化し尽くされてしまうことになる。

我々の生とは、決して完成されることの無い愛を求めて地上を彷徨するという、無為なものだ。
愛が完成されたその瞬間に、生は消えてなくなる。
「愛」の対義語は「憎」ではなく「生」であり、だから「愛」の同義語は「死」であるはずなのだ。



「クレイジーホース」の舞台監督、アリ・マフダビは、
「その素晴らしさを表現するのには、世界中の愛を合わせても足りない」と語った。
それは全く正しい。
表現を促すのは愛そのものではなく、愛の未完成や、消失や、拒絶なのだ。
愛そのものは表現を拒み続けるものなのだ。

僕の生活も、27パーセントは嘘だった。

■赤ひげ
黒澤明監督/1965/日本

赤ひげ [DVD]

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おなかは涙ながらに、佐八の前から姿を消した理由を話す。
実はおなかには、佐八の他に将来を約束した男があったのだった。
いや、「約束」というのは正確ではないのかもしれない。
一方的に惚れられて、もう十六七の頃から実家に資金援助を申し出てくれていた男が居たのだ。


「その人は二十歳になると、はっきりあたしが欲しいと言い、親も喜んでそれを承知しました。
 あたし、その人が好きでも嫌いでもなかったけど、うちにしてもらったことを考えて、
 それでもいいと思っていました。その時あなたに逢ってしまったんです。
 あたし、どうしていいか分からなかった。
 その人には済まない、そうかといってあなたとは別れられない。
 でもあたし、とうとう心を決めました。恩義は恩義。
 それはそれで、どうにでもして返せるもんだと決心してしまったら、
 あたし、自分でも怖いほど強くなって、親にぶたれて、泣きつかれても、強情を通しました」


「そのお前がどうして」


「あなたとの暮らしが幸せすぎました。あんまり幸せすぎて、何だか空恐ろしいほどでした。
 あたしが、あたしのようなもんが、こんなに幸せでいいはずがない。
 このままではきっと、罰が当たる。そう思って、いつもおどおどしていました。


 そして、あの地震※です。


 やっぱりそうだった。これが罰なんだ。あたしはもう、人の一生分も幸せに暮らした。
 この地震が、区切りを付けろというお告げなんだ。
 うちの人も、あたしがこの地震で死んだと思うに違いない。
 それで、けりが着く。けりを着ける時が来たんだ。
 そう思い詰めながら、ふと気付くと、あの人の家の前に立っていたんです」
 

「分かるよ。分かるよ。俺には、お前の気持ちが手に取るように分かるよ」


「それからあたし、腑抜けのようになって、ずるずるとあの人のものになりました。
 浅草の観音様であなたに会った時、急に目が覚めたように、何だか神隠しにあっていたのが、
 いきなり自分のうちの前に立たされたみたいな気持ちがしました。
 あの人と子供のいるあたし、どこか遠くに行ってしまった別の人のような気持ちなんです。
 でも、ここにいるあたしは、本当のあたしよ。抱いて。お願い、もっと強く抱いて。
 離さないで。あたしを離さないで」


この場面、涙なくしては見ることが出来ない。
おなかは未曾有の大災害を経験した後、
「今までの暮らしは嘘だったんじゃないか」と考えた。
この部分、現在の日本においては強く共感できる人が多いんじゃないだろうか。
捨てられた当の本人である佐八でさえも、「よく分かるよ」と強く頷いている。


あの地震の前に、この映画を観たとしたら、
「何で地震くらいで、今までの自分を見失っちゃうんだ?
地震くらいで見失うなら、その程度の生き方でしかなかったんじゃないか?」
と思っていたかもしれない。


だが、僕も完全に見失った。
地震の起こった翌日、何も手につかなかった。
逃げようとも思わなかったし、被災者の人たちの為に何かを始めようとも思わなかった。
哀しくもなかったし、怒りも沸いてこなかった。
何を感じればいいのかも分からないまま、流れるニュース映像をただボーッと観ていた。


今まで正直に、一生懸命に生きてきた人ほど、
「これまでの暮らしは嘘だったんじゃないか?」と自問自答しているような気がする。



地震のせいで、哀しいことがいっぱい起こったし、その苦しみは今も続いている。
だが、地震のお陰でハッキリしたこともある。


手に職を付ければ一生安泰だと思っていた。
お金があれば幸福になれると思っていた。
水と電気と安全は無料だと思っていた。
誰かを蹴落とせば、その分だけ自分が上に行けると思っていた。
学歴や、名誉や、収入が、人間の価値を決めると思っていた。
東北地方なんてめったに行かないから、自分の生活とはあまり関係が無いと思っていた。
何となく、平均寿命くらいまでは生きられると思っていた。
永田町のパワーゲームを政治だと思っていた。


みんな嘘だった。
今まで何となく怪しいな、と思われていたものは、ことごとく化けの皮を剥がされた。


地震の後、それにハッキリ気付いた人の多くは、
「じゃあオレの(わたしの)人生も嘘だったんじゃないか?」と考えたはずだ。
今までの生活を微塵も疑いもせず、震災前の生活をそのまま続けられた強い人は尊敬に値する。
だが、僕は見失ってしまった人にこそ、憐憫と共感を感じる。


僕は地震が起こった次の日から節電を始めた。
104kw 2150円だった電気代は、翌月には76kw 1657円になった。
僕の生活も、27パーセントは嘘だったということだ。


今からでも遅くない。
本当の生活を始めよう。


※「乙未(きのとひつじ)の年の地震」と言っているので、
 おそらく1835年(天保6年)に発生した宮城県沖地震のことであろう。
 1835年の後、宮城県沖を震源地とする地震は、
 1861年、1897年、1936年、1978年、2011年とほぼ30年周期で発生している。

イメクラに行ってきた。

■TRAVA - FIST PLANET
小池健石井克人監督/2001/日本

Grasshoppa!SPECIAL TRAVA-FIST PLANET episode 1 トラヴァ [DVD]

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イメクラに行ったんだ。でも普通のイメクラじゃなくて、「石油イメクラ」ってところ。


僕は一番安い「軽油セーラー服」のコースを選んだんだけど、
それはセーラー服を着た女子高生に、軽油をぶっかけるっていうプレイが出来るんだ。


他には「ガソリンスクール水着」っていうコースがあって、これはちょっと高い。
スクール水着の女の子と、ガソリン入りのプールで泳げる。プールサイドは禁煙。


一番高いコースは「重油ナース」。これはすごい。
重油を満載した10万t超のタンカーを、アラビア湾に沈めることが出来るんだ。
もちろん、乗組員の看護婦ごとね。



―――目が覚めた後、なんでそんな夢を見たのか考えた。
きっと、「TRAVA - FIST PLANET」を見たからだ。



石油は近い将来、枯渇するだろうと言われている。
湯水のように化石燃料を使い、大量の排気ガスを撒き散らし、
クラッシュすると凄まじい量の金属屑が発生するモータースポーツも、
信じられないくらい「贅沢な遊び」になるであろう。


そんな未来世界を舞台に、
宇宙中にある力自慢のノウリョクを集めて、一番を決めるレースが、
「FIST PLANET」だ。
「内容がシンプルなだけに宇宙中で今一番もりあがっている話題」だとトラヴァは言う。


そもそもトラヴァとシンカイはマーキングをしに、
宇宙の果てのファーブル星「エリア78」までやって来たわけだが、
そのこと自体無駄だっだ。
住む星は足りてるが、平和ですることが無いから、将来の保険の為に調査しに来たと、
シンカイはミクルに説明する。


一切の記憶を消された状態で避難ポッドに入れられたスカーフェイスの美女ミクル。
考える武器。甲蟲型ロボ・ガッソン。死して尚伝説となった変態社長のいる中川工業。
巨人星の生き残りが住む巨大独立移動星ポッガ。
住人を選び、エネルギーを与える星ファーブル。


・・・とにかく1時間足らずの映像作品には、
「無駄」に細かい設定のあるアニメーションだ。



僕は当然、「無駄だから良くない」と言いたい訳ではない。


バイク、車、ゲーム、音楽、映画、カメラ、鉄道、ロボット、天体、プラモデル、
サッカー、モデルガン、サーフィン・・・などなど、
オトコたちは、いつの時代もそんな「無駄な遊び」に夢中になってきた。


男のロマン」、「ダンディズム」、「粋」、「エロチシズム」・・・。
それらは全て「無駄」という言葉に換言されるだろう。



J.バタイユは、「エロチシズムとは死に至るまでの生の昂揚である」と 言った。


秩序に向かう活動は「生産」であり、
混沌に向かう活動は「エロティシズム」だ。
「混沌に向かう活動」は、もちろん「無駄」だ。
消尽であり、蕩尽だ。
労働や生産活動によって得られた価値を捨て去る、
つまり低エントロピーをいたずらに増大に向かわせることだ。


資源の無駄遣いの中にこそ快楽があり、
人はそこにダンディズムや、エロチシズムを感じる。
人はみな、「生」の中にある「死」の快楽を求めて生きているのだ。



無駄なことをする人は、戦時中は「非国民」と呼ばれ、
3.11以降は「不謹慎」と言われるようになった。


「無駄なことばかりする人」が、再び「粋人」と呼ばれる日が来ることを、心から願う。

人の善意に甘えるのも優しさ。

■人の善意を骨の髄まで吸い尽くす女
加藤行宏監督/2009/日本

人の善意を骨の髄まで吸い尽くす女 [DVD]

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長いタイトルだなー。
主演のマホちゃん曰く、「人の善意」とか「骨の髄」とか略すらしい。
「人の髄」とか「骨の善意」とか間違った略し方もされているらしい。
映画紹介はこうだ。

                                          • -

深谷オールロケ作品。売れない舞台女優、山田真歩は友人の彼氏が作った映像作品が動画サイトで10万アクセスを記録していることを知り、自らが主演するネットドラマを作ることを企画する。真歩は芝居仲間の牧野とともに、田舎町の壊瀬で撮影を行う。現地の住民たちの協力を得て、撮影が順調に進むかに見えたのだが、真歩は彼らの善意を次々と仇で返していく。後に牧野は真歩が周りから「人の善意を骨の髄まで吸い尽くす女」と呼ばれていることを知る…
2008年に実際に起こった出来事を基にした不条理コメディー。

                                          • -


映画を通しての感想は・・・そうだな、まず、牧野さん怖いってこと。
最初は「山田真歩」に好意を寄せて協力的だった彼が、
ある時にそのワガママに堪えられなくなり、キレて大暴れする。
普段優しい人がキレる時って怖いよね。


それから、「山田真歩」は、女優の卵でありながら、公務員の男性と結婚している。
彼は「優しくて、困っている人が居るとほっておけない人」という個性を持っており、
妻の「山田真歩」に対しても、深い慈しみを持って接している。
山田真歩」は、その優しさに付け込む悪妻という訳だ。
夫はまた、ゲームばかりやっているニートの友達を、家で飼っている。
誰もまともに家事をしない為に家はゴミ屋敷になっているが、
夫婦とその友達の3人はそのゴミ屋敷で共同生活を送っているのだ。
夫はゲイではないが、その友達を心から愛し、甘やかしている。
いつまで居てもいいんだよ、と言って一緒にゲームをやったり、お小遣いをあげたりするのだ。
僕には、「山田真歩」がネットドラマを作るという本筋よりも、
この3人の奇妙な共同生活の方に妙なリアルを感じた。



映画を観た後、僕はうまく話すことが出来ないほどのショックを受けてしまった。


やはりこの映画で大きなインパクトを持っているのは、まずはそのタイトルだろう。
「人の善意を骨の髄まで吸い尽くす女」。これは主人公の「山田真歩」を指している。
しかし僕には、「山田真歩」が恐ろしいモンスター女には思えなかったのだ。
それは、僕も「山田真歩」の類稀な「外面の良さ」に騙されているからだろうか?
そうかもしれない。
しかし、人の善意に素直に甘えるというのも一種の優しさだと僕は思うのだ。
僕もそうやって、人の善意に甘えたままで今まで生きてきた。
僕にはどうしても、「山田真歩」が悪人とは思えなかった。
人の善意に、優しさに触れることでしか、自らの存在を確認出来ない、
弱い存在なのではないかと思ったのだ。


僕はむしろ、「山田真歩」の周りの人たちの心を恐ろしく思った。
自らの欲望が受け入れられないと知るや手のひらを返して凶暴化する牧野さん。
カメラを通じて「金を返せ」と口を尖らせる同級生や、劇団の座長。
あるいは「真歩は恩を仇で返すような恐ろしい子に育ってしまった」と咽び泣く母親。
僕にとっては彼らの方がグロテスクだ。


(同級生は少しリアルじゃないと思った。
牧野さんは「特典映像を撮るので、山田真歩さんのことを話して下さい」と言ったのだ。
不特定多数の人が見るかもしれない映像に、「金を返せ」とか「芝居がつまらない」だとかって
言える人って居るのだろうか?
僕が台本を書くなら、カメラが回っている時には褒めちぎり、
止めた途端に悪口を始めるようにするだろうな)


僕が言葉を失ってしまったのは、きっとのその悪意を浴びたからだろう。

最も残虐で熾烈な暴力とは。

■映画ドラえもん のび太と鉄人兵団
芝山努監督/1986/日本

史上最大の作戦プラトーンフルメタル・ジャケットプライベート・ライアン
硫黄島からの手紙・・・今まで数々の戦争映画を観てきたが、
僕はこの「のび太と鉄人兵団」ほど、残虐で熾烈な暴力を描いた作品を知らない。


どこでもドアで北極へ行ったのび太
空からは突然、巨大ロボットの足の部品が落ちてきた。
のび太は、持ち主も分からないままに、それを家に持ち帰った。
それ以降、次々に庭に降ってくるロボットの部品を、ドラえもんと協力して組み立てることにした。
ただし、現実世界では迷惑で動かすことができないので、「鏡面世界」へと運び出した。



やがて完成したロボットは、ドラえもんによって「ザンダクロス」と名付けられた。
のび太はしずかちゃんも鏡面世界へと誘い出し、ザンダクロスを好き勝手に操縦して遊ぶのだった。


遊び疲れて、授業中に居眠りするのび太の元に、リルルと名乗る謎の美少女が現れる。
リルルは、ロボットを帰して欲しいと、のび太に訴える。
実はリルルは、ロボット惑星メカトピアから派遣された少女型スパイロボットだったのだ。


ロボットしか居ない惑星・メカトピアから、鉄人兵団が地球に侵略してくる。
その目的は、人間たちを奴隷にすること。
そうして、鉄人兵団とのび太たちとの全面戦争が幕を開けた。


のび太のママは、ロボットの部品が運ばれてきて、
二階からズシーンという轟音が鳴り響いたときには、
「静かに勉強しなさいよ、もぅ」と、のび太に苦言を呈する。


信号音を出すザンダクロスのコンピュータを、
「近所迷惑だから」という理由で、物置に閉じ込めたり、箒でバシバシと叩いたりする。



これがこの映画の最初期に描かれ、また映画全体を貫く暴力のイメージだ。
のび太のママは、単純な価値基準(例えば、テストの成績など)を無批判に採用し、
どのような異常な事態が起ころうとも、日常に回帰しようとする人間のメタファーである。


日常によって覆い隠し、麻痺させることで、暴力は重層化する。
終わりなき暴力の連鎖は、非日常ではなく、日常によって起こる。
それが非日常で起こる限り、いかなる暴力も残虐たり得ない。
戦争が、単なる傷害事件よりも残虐なのは、暴力が日常化するからだ。



本来メカトピア側の兵器であるはずの「ザンダクロス」を味方につける為、
のび太たちは嫌がる相手に無理矢理洗脳改造を施す。


ドラえもん、ほら!」
「オッケイ!」
「あ〜何をする!」
「ん〜見たこともない回路がいっぱい!」
「じゃ、見たことのある回路に、直しちゃえば?」
「あったり〜やってみよう。こら〜静かにしろったら、こいつ、押さえてて!」


このシーン、あまりにも残酷すぎて、僕には直視することができない。
ナチスの進めた民族浄化優生学による産児制限・人種改良の上を行く残虐性を感じる。


ザンダクロスはこの洗脳改造以降、一言も喋らず、従順に命令を聞くだけの存在になる。


この非人道的な施術が、何のためらいもなく、まったき善意の元に行われるというのが恐ろしい。



物語の舞台となる「鏡面世界」というのも暴力装置として機能する。
「鏡面世界」とは、「入りこみ鏡」、
もしくは、「逆世界入りこみオイル」を投与した水面から入ることのできる異世界である。
床面に置いた鏡をくぐって入るので上下左右が逆になっているが、
中には人間・動物が一切居ない静かな世界だ。


「静かだなぁ、ほんとに誰も居ないんだね」
「言わば景色だけの世界なんだ」
「どこまで続いてるの?」
「どこまでも。どこまでーも外の世界をそっくりそのままずーっと続いてるんだ」


鏡面世界の中なら、いかなる破壊活動を行使しても、現実世界に被害が及ぶことはないと、
ドラえもんは説明する。
それを聞いたのび太たちは、無邪気にスーパーの食材を盗み、「ここでは何をしても平気なんだ」と嘯く。
咎められなければ、どんな破壊も盗みも正当化される世界!
この異世界での体験が、少年少女たちの成長にどのような影響を及ぼすだろうかと、
背筋に寒いものを感じた。



しかし、この物語において、一番圧倒的な暴力を行使したのは、しずかちゃんであろう。


戦力において圧倒的な不利に立たされたのび太陣営であったが、
起死回生の逆転を狙って、しずかちゃんはタイムマシンで過去に飛ぶ。
そしてメカトピアの神―――すなわち、鉄人兵団の始祖となるアムとイムというロボットを製造した科学者―――に会う。
そして神に対して何とかしてくれとお願いしに行く、という掟破りを犯すのだ。


神!
ロボットと人間との戦争を決着させるために、神の出動を要請せねばならないというこの皮肉!
藤子・F・不二雄先生の想像力をもってしても尚、
「結局、暴力の連鎖を断ち切るためには、タイムマシンに乗って神様にお願いするしかない」
という結論に達したということだ。
あぁ、何というニヒリズムだろう。


博士(=神)は、しずかちゃんに懇願されて、アムとイムを改造し、その進化の方向性を修正する。


「博士!」
「博士!しっかりしてください!」
「あぁダメだ、身体がすっかり弱りきってしまった」
「博士、わたしにやらせてください、わたしが続けます」
「リルル・・・」
「任せて」
「・・・リルル!」
「しずかさん、わたし、本当の天国を作るのよ。そしてわたしは、メカトピアの天使になるの」


その結果、リルルをふくむ鉄人兵団は、宇宙の歴史から跡形もなく消える。
かくて、のび太陣営=人類の大勝利で戦争は幕を下ろすのだった。



しかし―――。
話の通じない相手、自分に敵対する者を、全て消してしまっても構わないと考える心のあり方こそ、
究極の暴力ではなかったか。


しかも、しずかちゃんの行為によって、メカトピアはユートピアになったわけですらない。
神=科学者は、アムとイムから「競争本能」を消去し、「他人を思いやる心」を植えつけた。
競争本能を無くし、他人を思いやる心を植えつけられた種が、三万年も生き残れるわけが無い。
メカトピア文明はおそらく、この宇宙から痕跡も残さずに消滅してしまったのに違いない。


その証拠にそれ以降、ロボットたちは画面に姿を現さなくなってしまう。
のび太が、天使になったリルルを幻視しただけだ。


しずかちゃんが自らの手を血で汚さずに実行したのは、
―――ナチスを超える空前絶後ホロコーストだったのだ。


ユートピアとは、自分に敵対するものを皆殺しにした後の世界に顕現するものだろうか。


それならば、僕は楽園なんか要らない。
汚れきったこの世界を愛することにする。



ロボットを相手に残虐だなんて、何を言ってるんだ?と思う人もあろう。
だが、この映画を観れば分かる。
鉄人兵団は、ロボットと雖も心がある。
葛藤があり、罪悪感があり、他人に共感する能力がある。
外界との区別があり、代謝、自己保存、生殖の機能を備えていれば、それはもはや生物だ。
タンパク質ではなく無機物で構成されているからといって、生物ではないと主張することに意味は無い。


「鏡面世界」が示しているのは、「現実」と「虚構」が虚像関係にあることだけでない。


「人類」と「鉄人兵団」が鏡合わせになっているということだ。


リルルは、自分たちの惑星メカトピアの歴史を以下のように語る。


「はるか昔、メカトピアの人間たちは滅びた。
 人間はわがままで、欲張りで、憎み合い、殺しあった。
 神は人間を見捨て、代わりにアムとイムというロボットを作った。
 神は『お前達で天国のような社会を作りなさい』と命じた。
 その後、ロボットの中にも、金持ち・貴族と奴隷という階級が生じた。
 しかしやがてみんな平等なはずだという考えが広まり、奴隷制度は廃止された。
 しかし、社会の存続のために新しい労働力が必要なので、地球の人間たちを使うことにした。
 ロボットは神の子であり、宇宙はロボットのためにある」


それを聞いたしずかちゃんは、思わず呟く。
「まるっきり人間の歴史じゃない。神様もさぞガッカリなさったでしょうね」
しずかちゃんの人類に対する嫌悪感、悪意には背筋が凍る思いだ。



そしてしずかちゃんは、自分たち人類と、メカトピアのロボットたちが、
鏡映しになった全く同価値の存在であるということをハッキリと認識した上で、
ホロコーストを遂行する。


しかも彼女は、罪悪感も、嫌悪感も感じてはいなかった。
ただ、日常へ帰りたいと願っていただけだ。



そもそも「ドラえもん」は、「終わりのない日常」を描いた作品だ。
のび太たちは永遠の小学5年生である。
その永久性は、原作者の死や、声優陣の老化を以ってしても止めることが出来ない。
スクリーン上でキャラクターたちが、いくら血みどろの闘いを演じようとも、
映画が終われば日常が返ってくる。
観ている映画が「ドラえもん」であれば尚更、
観客は「必ず日常に帰ってくる」と知りながらスクリーンに向かっているはずだ。


日常への回帰!それこそが最も残虐で熾烈な暴力なのだ。