最も残虐で熾烈な暴力とは。

■映画ドラえもん のび太と鉄人兵団
芝山努監督/1986/日本

史上最大の作戦プラトーンフルメタル・ジャケットプライベート・ライアン
硫黄島からの手紙・・・今まで数々の戦争映画を観てきたが、
僕はこの「のび太と鉄人兵団」ほど、残虐で熾烈な暴力を描いた作品を知らない。


どこでもドアで北極へ行ったのび太
空からは突然、巨大ロボットの足の部品が落ちてきた。
のび太は、持ち主も分からないままに、それを家に持ち帰った。
それ以降、次々に庭に降ってくるロボットの部品を、ドラえもんと協力して組み立てることにした。
ただし、現実世界では迷惑で動かすことができないので、「鏡面世界」へと運び出した。



やがて完成したロボットは、ドラえもんによって「ザンダクロス」と名付けられた。
のび太はしずかちゃんも鏡面世界へと誘い出し、ザンダクロスを好き勝手に操縦して遊ぶのだった。


遊び疲れて、授業中に居眠りするのび太の元に、リルルと名乗る謎の美少女が現れる。
リルルは、ロボットを帰して欲しいと、のび太に訴える。
実はリルルは、ロボット惑星メカトピアから派遣された少女型スパイロボットだったのだ。


ロボットしか居ない惑星・メカトピアから、鉄人兵団が地球に侵略してくる。
その目的は、人間たちを奴隷にすること。
そうして、鉄人兵団とのび太たちとの全面戦争が幕を開けた。


のび太のママは、ロボットの部品が運ばれてきて、
二階からズシーンという轟音が鳴り響いたときには、
「静かに勉強しなさいよ、もぅ」と、のび太に苦言を呈する。


信号音を出すザンダクロスのコンピュータを、
「近所迷惑だから」という理由で、物置に閉じ込めたり、箒でバシバシと叩いたりする。



これがこの映画の最初期に描かれ、また映画全体を貫く暴力のイメージだ。
のび太のママは、単純な価値基準(例えば、テストの成績など)を無批判に採用し、
どのような異常な事態が起ころうとも、日常に回帰しようとする人間のメタファーである。


日常によって覆い隠し、麻痺させることで、暴力は重層化する。
終わりなき暴力の連鎖は、非日常ではなく、日常によって起こる。
それが非日常で起こる限り、いかなる暴力も残虐たり得ない。
戦争が、単なる傷害事件よりも残虐なのは、暴力が日常化するからだ。



本来メカトピア側の兵器であるはずの「ザンダクロス」を味方につける為、
のび太たちは嫌がる相手に無理矢理洗脳改造を施す。


ドラえもん、ほら!」
「オッケイ!」
「あ〜何をする!」
「ん〜見たこともない回路がいっぱい!」
「じゃ、見たことのある回路に、直しちゃえば?」
「あったり〜やってみよう。こら〜静かにしろったら、こいつ、押さえてて!」


このシーン、あまりにも残酷すぎて、僕には直視することができない。
ナチスの進めた民族浄化優生学による産児制限・人種改良の上を行く残虐性を感じる。


ザンダクロスはこの洗脳改造以降、一言も喋らず、従順に命令を聞くだけの存在になる。


この非人道的な施術が、何のためらいもなく、まったき善意の元に行われるというのが恐ろしい。



物語の舞台となる「鏡面世界」というのも暴力装置として機能する。
「鏡面世界」とは、「入りこみ鏡」、
もしくは、「逆世界入りこみオイル」を投与した水面から入ることのできる異世界である。
床面に置いた鏡をくぐって入るので上下左右が逆になっているが、
中には人間・動物が一切居ない静かな世界だ。


「静かだなぁ、ほんとに誰も居ないんだね」
「言わば景色だけの世界なんだ」
「どこまで続いてるの?」
「どこまでも。どこまでーも外の世界をそっくりそのままずーっと続いてるんだ」


鏡面世界の中なら、いかなる破壊活動を行使しても、現実世界に被害が及ぶことはないと、
ドラえもんは説明する。
それを聞いたのび太たちは、無邪気にスーパーの食材を盗み、「ここでは何をしても平気なんだ」と嘯く。
咎められなければ、どんな破壊も盗みも正当化される世界!
この異世界での体験が、少年少女たちの成長にどのような影響を及ぼすだろうかと、
背筋に寒いものを感じた。



しかし、この物語において、一番圧倒的な暴力を行使したのは、しずかちゃんであろう。


戦力において圧倒的な不利に立たされたのび太陣営であったが、
起死回生の逆転を狙って、しずかちゃんはタイムマシンで過去に飛ぶ。
そしてメカトピアの神―――すなわち、鉄人兵団の始祖となるアムとイムというロボットを製造した科学者―――に会う。
そして神に対して何とかしてくれとお願いしに行く、という掟破りを犯すのだ。


神!
ロボットと人間との戦争を決着させるために、神の出動を要請せねばならないというこの皮肉!
藤子・F・不二雄先生の想像力をもってしても尚、
「結局、暴力の連鎖を断ち切るためには、タイムマシンに乗って神様にお願いするしかない」
という結論に達したということだ。
あぁ、何というニヒリズムだろう。


博士(=神)は、しずかちゃんに懇願されて、アムとイムを改造し、その進化の方向性を修正する。


「博士!」
「博士!しっかりしてください!」
「あぁダメだ、身体がすっかり弱りきってしまった」
「博士、わたしにやらせてください、わたしが続けます」
「リルル・・・」
「任せて」
「・・・リルル!」
「しずかさん、わたし、本当の天国を作るのよ。そしてわたしは、メカトピアの天使になるの」


その結果、リルルをふくむ鉄人兵団は、宇宙の歴史から跡形もなく消える。
かくて、のび太陣営=人類の大勝利で戦争は幕を下ろすのだった。



しかし―――。
話の通じない相手、自分に敵対する者を、全て消してしまっても構わないと考える心のあり方こそ、
究極の暴力ではなかったか。


しかも、しずかちゃんの行為によって、メカトピアはユートピアになったわけですらない。
神=科学者は、アムとイムから「競争本能」を消去し、「他人を思いやる心」を植えつけた。
競争本能を無くし、他人を思いやる心を植えつけられた種が、三万年も生き残れるわけが無い。
メカトピア文明はおそらく、この宇宙から痕跡も残さずに消滅してしまったのに違いない。


その証拠にそれ以降、ロボットたちは画面に姿を現さなくなってしまう。
のび太が、天使になったリルルを幻視しただけだ。


しずかちゃんが自らの手を血で汚さずに実行したのは、
―――ナチスを超える空前絶後ホロコーストだったのだ。


ユートピアとは、自分に敵対するものを皆殺しにした後の世界に顕現するものだろうか。


それならば、僕は楽園なんか要らない。
汚れきったこの世界を愛することにする。



ロボットを相手に残虐だなんて、何を言ってるんだ?と思う人もあろう。
だが、この映画を観れば分かる。
鉄人兵団は、ロボットと雖も心がある。
葛藤があり、罪悪感があり、他人に共感する能力がある。
外界との区別があり、代謝、自己保存、生殖の機能を備えていれば、それはもはや生物だ。
タンパク質ではなく無機物で構成されているからといって、生物ではないと主張することに意味は無い。


「鏡面世界」が示しているのは、「現実」と「虚構」が虚像関係にあることだけでない。


「人類」と「鉄人兵団」が鏡合わせになっているということだ。


リルルは、自分たちの惑星メカトピアの歴史を以下のように語る。


「はるか昔、メカトピアの人間たちは滅びた。
 人間はわがままで、欲張りで、憎み合い、殺しあった。
 神は人間を見捨て、代わりにアムとイムというロボットを作った。
 神は『お前達で天国のような社会を作りなさい』と命じた。
 その後、ロボットの中にも、金持ち・貴族と奴隷という階級が生じた。
 しかしやがてみんな平等なはずだという考えが広まり、奴隷制度は廃止された。
 しかし、社会の存続のために新しい労働力が必要なので、地球の人間たちを使うことにした。
 ロボットは神の子であり、宇宙はロボットのためにある」


それを聞いたしずかちゃんは、思わず呟く。
「まるっきり人間の歴史じゃない。神様もさぞガッカリなさったでしょうね」
しずかちゃんの人類に対する嫌悪感、悪意には背筋が凍る思いだ。



そしてしずかちゃんは、自分たち人類と、メカトピアのロボットたちが、
鏡映しになった全く同価値の存在であるということをハッキリと認識した上で、
ホロコーストを遂行する。


しかも彼女は、罪悪感も、嫌悪感も感じてはいなかった。
ただ、日常へ帰りたいと願っていただけだ。



そもそも「ドラえもん」は、「終わりのない日常」を描いた作品だ。
のび太たちは永遠の小学5年生である。
その永久性は、原作者の死や、声優陣の老化を以ってしても止めることが出来ない。
スクリーン上でキャラクターたちが、いくら血みどろの闘いを演じようとも、
映画が終われば日常が返ってくる。
観ている映画が「ドラえもん」であれば尚更、
観客は「必ず日常に帰ってくる」と知りながらスクリーンに向かっているはずだ。


日常への回帰!それこそが最も残虐で熾烈な暴力なのだ。