僕は君を殺した後で、必ず自首するよ。

ミリオンダラー・ベイビー
クリント・イーストウッド監督/米/2004/原題:Million Dollar Baby

ミリオンダラー・ベイビー [DVD]

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アカデミー賞を4部門も受賞して話題になった作品らしい。
初見だったが、僕はこの映画、大いに不満だったな。


女ボクサー・マギーの家族が、まるで血も涙も無いような人でなしとして描かれている。
こんなの、リアルじゃない。
親だったら必ず娘の幸福を願う、と断言出来る訳でもないが、
あまりにキャラクターの扱いが雑過ぎる。
人というのは基本的にそんなに邪悪なものではなく、それぞれの正義を抱えているものだ。
対立は正義と悪の間で起こるのではなく、正義と正義との間で起こるのだ。


「諸悪の根源は〇〇である!」
〇〇には、ユダヤ人、米軍、日本政府、日教組創価学会在日韓国人、宇宙人などなどなど、
何でも代入可能だ。


「どこかに悪い奴が居て、だから俺は幸せになれないんだ」みたいなことをいう陰謀論者は
みな幼稚な人間だと言わざるを得ない。


僕がハリウッド映画をあまり好きになれないのは、
単純な善悪二元論や、勧善懲悪の幼稚なストーリーが
いつまでも幅を利かせているからかもしれない。



ダンは植物状態になったマギーを尊厳死させた後、姿をくらませて行方が分からなくなる。
僕は、そのラストにも不満だ。
尊厳死の問題は必ず、家族や恋人など本当に身近な人たちに還元されて来るはずなんだ。
尊厳死の問題は患者の死を以って終わるわけじゃない。
愛する家族をその手で殺し、あるいは同意、もしくは傍観し、
それでも彼らはその場で生きていかなきゃいけないんだ。
尊厳死というのはそういうものだ。


ダンはすぐに警察に自首するべきだった。
人殺しとして刑事責任を問われ、
またマギーの家族に起訴されて民事責任を問われ、
そして後ろ指を差されながら生きていくという道義的責任を負うべきなのだ。


それを一切放棄して、姿をくらますなんて!
それは果たして本当の愛なのか?
マギーをその手で殺したダンにも、その後の人生があるはずだ。
「その後彼の姿を見た者はありませんでした。エンドロール」!
これの一体どこで泣けと言うんだ。



君を愛してる。
僕は君を殺した後で、必ず自首するよ。
約束する。

事実は小説よりも不条理なり。

■欲望(BLOW-UP)
ミケランジェロ・アントニオーニ監督/1966/英・伊/原題:BLOW-UP

若き人気ファッション・カメラマンのトーマスはある日、
公園でカップルを見かけ、彼らのスナップを撮った。
女は自分たちを撮影していたトーマスに気付き、ネガを渡すよう要求した。
要求をのらりくらりとかわし、トーマスはその場を逃れる。
スタジオに戻って現像すると、そこには意図しない、奇妙なものが写っていた。
トーマスはその写真を引き延ばす(BLOW-UP)ことで、
そこで殺人事件が起こっていたことに気付いた。


この映画の舞台は、1960年代半ば、「スウィンギン・ロンドン」華やかなりしロンドン。
当時のファッションや、音楽、車、インテリア、カメラなどが堪能できる
スタイリッシュ・ムービーだ。


「欲望」という邦題が付けられているが、
その邦題の通りに、官能映画だと思って観ると肩透かしをくらうだろう。
そこにあったのは「欲望」ではなく、「欲求」や「生理」だ。
しかもそれすらもメインテーマではない。
―――僕が邦題を付けるなら、「事実は小説よりも不条理なり」になるだろうか。


映画の中で殺人が行われたら、観客は当然、犯人や、被害者、殺害方法、動機などが、
映画の中で明かされるものだと思い込む。
それが行われないと「この映画は不条理だ」と抗議する。
だけど、現実なんて実際そんなもんだ。
現実では殺人事件を目撃すること自体、そうそう起こり得ない。
例え、そういう現場に出くわしたとしても、ストーリーめいたものが明かされることは決してない。
何の脈絡も無い、不条理な出来事ばかりが積み重なっていくだけだ。


目を閉じた状態で放置しただけのモデル達。
買っただけのプロペラ。
後部座席に置かれただけのプラカード。
遊んだだけの女の子。
拾っただけのギターネック。
行き会っただけのストリートパフォーマー


それらの事実は、ただ「起こった」だけだ。
他の事実と繋がっていくことは決してない。
そういう、お互いには何の繋がりもない無意味な事象が積み重なって、
そして何か重要な意味を持つはずだった「事件」も、少しずつ遠い過去へと押しやられていく。


「物語」を求める観客はそこに不満を漏らすだろう。
だが、総じて現実というのはそういうものだ。
だから、その現実を模倣しているはずの小説や映画だって、そうあったって一向に構わないはずだ。
ひとつひとつの出来事を引き延ばして(BLOW-UP)いったって、
あるひとつの結末を導き出すなんて、有り得ない。


公開時から「難解だ」と言われ続けたこの作品だけれど、
実はそういう「意味」を期待する観客を、嘲弄している作品なのではないだろうか。

お袋、安心してくれ。

マイケル・ジャクソン THIS IS IT
ケニー・オルテガマイケル・ジャクソン監督/2009/米/原題:Michael Jackson's This Is It

マイケル・ジャクソン THIS IS IT(1枚組通常盤)

マイケル・ジャクソン THIS IS IT(1枚組通常盤)

実家に帰ったときの話。
お袋はなぜか僕に、マイケル・ジャクソンの「THIS IS IT」を見るかと訊いてきた。
えっ、何で僕はお袋に MJ を勧められているんだ?
だが母親の助言というのは、とにかく素直に聞いておくに限る。
僕は鎌倉の掘り炬燵で MJ の映画を観る、という奇妙な朝を過ごした。


もし MJ が亡くなっていなければ、行われたはずワールドツアーがある。
THIS IS IT」は、そのリハーサルの様子を収めたドキュメンタリー映画だ。
この時、彼ははすでに50歳。


MJ が十年以上ぶりにツアーをやると知って、世界中のダンサーがオーディションを受けにやってくる。
MJ の後ろで踊るということは、ダンサーにとって何にも勝る栄誉なのだ。
ダンサーたちはショーにおいて、MJ の手足のような存在である。
彼の意図通りに動き、正確で、美しく、かつ目を引くような華があるようなダンサーが
オーディションによって選ばれていく。
その倍率は何百倍、何千倍というものである。


同様にバックバンド、舞台装置、メイク、衣装、PV 撮影、
その他全てのショーを構成するスタッフたちは、
世界中から選りすぐった超のつく一流ばかりであった。
その誰もが MJ を尊敬し、敬愛し、賞賛し、憧れ、彼を支え働くことに誇りを持っていた。


だが、一方の MJ は、ステージ上で孤独だった。
天才はいつだって孤独だ。
一曲一曲リハーサルをやりながら、どのように見せたいか、狙いは何か、
その為にどのような音と、ダンスと、照明と、舞台装置が必要なのかを、淡々とスタッフに伝えていた。
その様子は剛胆なリーダーでも、愛嬌のあるボスでもなく、神経質な草食動物さながらだった。


彼の耳は全ての音を聴いてしまう。
彼の目は全ての光を見てしまう。
彼の身体は全てのリズムを感じてしまう。


そして、それを知覚できないバックバンドや、バックダンサーに対して、
どうしてこんなことが分からないんだ、どうしてこんなことに気付かないんだ、と常に苛立つ。
だが彼は、その苛付きを隠し通す術に長けていた。
かつてのように、不機嫌に怒鳴り散らすこともない。
そんなことをしても何も生まれないことを、長い経験で知ったのだ。
厳しく指示を出した後に、小さい声で付け加える。
「怒っているんじゃないんだ、愛しているんだ、理解して欲しい」


彼に与えられた称号は「キング・オブ・ポップ」。
それは彼自身が音楽そのものであり、また、アメリカ合衆国そのものであるということを示している。
経済格差、人種差別、薬物濫用、幼児虐待、小児愛、商業的ポップ、チャリティ、環境破壊、
バブル、整形手術、膨大な訴訟、ゴシップ、偏向報道、王座からの失墜・・・。
彼の生涯を語る上で避けられないそれらの問題は、
いずれもアメリカ合衆国の病理そのものを見るようだ。



僕は彼の超人的な努力に想いを馳せた。
努力を努力とも思わず、人の何十倍、何百倍も頑張ってきたはずだ。
常に完璧を目指し、妥協することを知らず、頂点だけを目指した。
MJ の全盛期が、BAD にあるのか、スリラーにあるのか、We are the world にあるのか知らないが、
彼は常に全盛期の自分に基準を置いていた。
彼のファンはなかなか新作が出ないことや、やっと出た新作の出来が良くないことに苛立っていたが、
本当に苛立っていたのは彼自身のはずだ。
逃げることも、目を背けることも出来ないくらいに、彼は繊細で、誠実だった。
MJ の才能や富、名声を羨むのは簡単だが、
それに見合う努力や苦悩を引き受けられる人間はそうはいない。


正直言って僕は、MJ の音楽は好きじゃない。
それどころか憎んでさえいる。
彼の音楽だけではなく、彼の音楽が象徴する、70〜80年代のアメリカ音楽にはうんざりだし、
彼の影響を受けた当時の日本のポップスも聴く度に辟易する。


しかし、この映画を観ていて気付いた。
彼を嫌いになることは出来ても、無視をすることは出来ない。
影響を受けずにいられない。
それは一度耳に入ったら、恐ろしい素早さで僕の耳に貼り付いて、
頭を振っても、叫んでも、離れなくなるのだ。



彼は感じたリズムを、自分の身体を使って表現することが出来る。
そのインプットからアウトプットへの変換は、驚くほどに淀みが無い。
彼の身体はそれ自体が音楽のように、うねり、共鳴し、弾み、展開する。
優れたダンスはまるで演奏しているように見えるものだ。
ダンスに依って音が出ないことの方がむしろ不思議なくらいだ。


そして問題は僕自身に返ってくる。
僕は音楽が流れる時、そのうちのどれだけをインプット出来ているだろう?
インプットに対して、どれだけのアウトプットが出来ているだろう?
100 の音楽を浴びたら、20 もインプット出来ているだろうか。
20 のインプットから、1 のアウトプットも出来ているだろうか。
僕には、MJ のような回路が無い。
MJは「踊るときは何を考えているのでしょうか」と質問された時、
「踊る時に考えるのは最大のミス。感じることが大切なんだよ」と答えたという。
僕はいつも答えの出ない問いを抱えて、考えてばかりいる。
水は淀んでいく一方だ。


映画を観終わった僕は、畳の上に仰向けに寝転がった。
濁っていく意識の中で、無意味な焦りを覚える。
お袋、安心してくれ。あなたの愛する息子は凡人だ。

今となっては信じられないけど、僕にも青春時代があった。

■青春残酷物語
大島渚監督/1960/日本

青春残酷物語 [DVD]

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青春を青春たらしめるものは何だろう。
若さ?無知?無謀?
貧乏?甘え?怒り?
孤独?独立心?自己否定?
社会情勢?時代の流れ?革命への憧れ?
体力の充実?肉体の美しさ?シナプスの発達?
セックス?精神の不安定?ホルモンバランス?
きっと全部なんだろうけど、一体、本質はどれだろう。


青春というのは、誰にとっても暗く、苦しく、哀しい時代だろう。
それを「明るく楽しい輝く時代」だと言っているのは、
自分の青春時代を忘れてしまったオトナだ。


今となっては信じられないけど、僕にも青春時代があった。
不器用で、自堕落で、ルール違反ばかりを犯していた。
無力で、傲慢で、何もかも両親に依存していた。
孤独で、周りの誰もをバカにしていて、セックスに明け暮れていた。
自分が無知だということも知らないくらい無知で、
何の才能も無いくせに、自分だけは特別だと自惚れていた。
自分がどんなに幸運で幸福なのかを知らず、不満ばかり言って、
現実味の無い夢物語ばかりと親しんでいた。
青春というのは、かようにも残酷な物語だ。


堕胎手術をした恋人の真琴が横たわるベッドの傍で、清は無言でリンゴを齧る。
彼はこんなとき、どんな言葉も無意味だと知っているのだ。
ただリンゴを食べてるだけなのに、恐ろしく残酷で、艶っぽい。
アダムとイヴが原罪の穢れを背負ったのもやはり、こんな瞬間だったろうか。

イギリス的な自我と、フランス的なリビドー。

スイミング・プール
フランソワ・オゾン監督/2003/英・仏/原題:Swimming Pool

スイミング・プール 無修正版 [DVD]

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どのような解釈も可能な、曖昧な表現ばかりの映画だ。例えば―――。


・ジョンは「娘が居るかもしれない」ってちゃんと言ってたのに、
 サラは「娘が来るかもしれないなんて、一言も聞いてない!」と怒っていた。
 (しかもこれは留守電に吹き込んだ)
・ジョンから掛かってきたという電話をジュリーから受け取ったのに、電話は切れていた。
 掛け直しても留守。
・外した筈の十字架が、また壁に掛けられている(しかも2回)。
・マルセルの老女のような娘が、
 「ジュリーのお母さんが亡くなったのは不幸な事故だった」と怯えている。
・サラの執筆中、カメラが不自然に右にパンして、また戻る。
・お腹の傷のことをジュリーに聞くと「交通事故よ」と答える。
・レストランに行くと、昼はそもそも営業していないと言われる。
 フランクが寝坊しているからで、それはいつものこと、という不明瞭な理由。
・フランクを殺した理由をジュリーに訊くと「あなたの為、そして本の為」と答える。
・サラが選んだ部屋のクローゼットに置いてあった持ち主の分からない赤い服。
 後から来たジュリーのものとは思えない。


僕はこう解釈する。
「ジュリーはサラの化身であり、サラはジュリーの仮託だった」
所々で辻褄の合わない個所が出てくるのは、
お互いの存在がお互いの幻想であることから生じているのだろう。


何の根拠も無い想像だけれど、
サラはその昔、堕胎手術をして、母親になり損ねてるんじゃないだろうか。
欲望に身を任せ、自暴自棄になった結果を、サラは激しく後悔した。
自分の欲望を閉じ込めて「イギリス的/理知的/推理小説的な自我」に身を置くことに決めた。
しかし、自分の心の中にどうにも制御できない「フランス的/衝動的/ハーレクイン小説的なリビドー」があることにも気付いていた。
それは嫌悪を呼び起こすような醜い衝動だが、自分の中に確かにあるものだ。
あまりにもそれが前景化してきたことが、今回のスランプの原因だった。
ジュリーはその「フランス的なリビドー」の化身だったんだ。


一方のジュリーにも、足りないものがあった。
それは「母親」だ。
自分を褒め、導き、罰し、保護する、超越的な自我だ。
存在しない「母親」の代替として、ジュリーは13歳の頃から男を取っ替え引っ替えしては、
満たされない欠落を埋めようとした。
「男にモテて、欲望の赴くままに生きている私に、足りないものなんか無い!」と
自分に言い聞かんばかりに。
しかしそれが破綻する時がやってくる。
それはジュリーにとって最も恐ろしいことでありながら、
心のどこかで待ち望んでいた敗北の瞬間ではなかったか。
その時、ジュリーはサラに母親の面影を幻視する。
ジュリーはサラに母親を仮託したんだ。


ジュリーに母親を仮託され、相手の幻想をまともに受け止めたサラはしかし、
「母親であったかもしれない自分」を発見する。
あの時堕胎した胎児が産まれていたら、きっとジュリーくらいの年齢になっている。
それはジュリーと同じように、美しく、残酷で、反抗的でありながら、
魅力的な娘であったろう。
サラは自分の中に母性があったことに戸惑いながら、
ジュリーを保護し、慰め、力付けて、正しい方向に導いてやろうとする。



ジュリーのお腹に傷跡があるのは、堕胎手術の跡をサラが幻視した為だ。
サラはその「見えるはずの無い傷」について、何度も何度も思いを巡らせてきた。
「あれは事故だった。不幸な事故だったんだ」と言い聞かせながら。
それを他でもない自分が殺した相手の娘のジュリーに言わせることで、自らを慰めた。


マルセルの娘が、同じ台詞を吐いたことを想起されたい。
ただし、あの老人のような娘が「あれは不幸な事故だった」と何かに怯えるように供述したのは、
ジュリーの傷についてではなく、ジュリーの母親の死についてだった。
つまりは、ジュリーの傷がついたのと、ジュリーの母親が死んだのは、
同じ理由によって出来たのだということだ。


サラは考えた―――ジュリーの母親は自分であったかもしれない。
その自分は赤く情熱的な服を着、欲望に忠実で、気の向くままにプールに飛び込み、
社会的秩序から自由な存在であるだろう。
理知的で退屈な推理小説ではなく、
激しい女の情念を描いたハーレクイン小説を書いているであろう。
・・・その小説というのが、「ジュリーの母親=サラ」の書いた「スイミング・プール」であったのだ。


そして、その小説は欲望と死に彩られている。
娘を殺すということは、退屈な推理小説を書いて、欲望のない生を生きること。
逆に、娘を産むということは、情熱的なハーレクイン小説を書いて、死ぬということ。
執筆中、カメラが水平移動するのは、
その二つの可能性を行き来しながら生きる小説家の運命を暗示しているのかもしれない。



ジョンが確かに「娘が居るかもしれない」と言ったのに、サラはそれを無かったことにした。
フランスに着いて最初の電話は繋がったが、ジュリーが到着して以降は、一度も繋がらなかった。
それは娘と自分との間には「父親」は介在してはならないというサラの決意ではなかったか。
娘が産まれたのは、自分の欲望の結果だ。
それは自分の責任であり、父親は無関係だ。
サラの中では、「娘が居るなんて聞いてない!」という自分と、
「娘が居るのは自分の責任に他ならない」という自分とのせめぎ合いがあった。


堕胎手術の罪悪感から逃れる為、サラはキリスト教徒であることをやめた。
だがそれでも罪悪感は消えず、むしろ背教者というレッテルが更なる苦しみを生むことになった。
壁に架かった十字架に過剰反応し、ついには自分の手でそれを付けたり外したりを繰り返した。
「キリストは父なくして処女懐胎したマリアから産まれた」ということも特筆すべきであろう。
自分の苦しみを知っているのは、ひょっとしたらキリストだけなのかもしれないと知りながら、
サラはそれに目を背ける。



サラとジュリーの二人に、キリスト以外の超越者がいるとしたら、
それはフランク以外には有り得ない。
彼女たちの「家」は広く、何の不自由もなく住み分けられていたはずだ。
しかしフランクは二人の明確な境界線を破壊し、間に立って何かを宣告しようとした。
どんなことがあろうとも、それだけは回避しなければならなかったことだ。


ジュリーはフランクを殺した理由について「あなたの為、そして本の為」と答える。
ジュリーはサラの化身なので、彼女が言ったことはすなわちサラの心の欲求であるはずだ。
サラは新しく生まれ変わる自分と、新しい小説の為に、古い自分を捨て去る必要があった。
それがジュリーをして殺人に走らせた衝動なのであった。

傷付けることを怖れるのは、愛することを怖れること。

ポンヌフの恋人
レオス・カラックス監督/1991/仏/原題:Les Amants du Pont-Neuf

ポンヌフの恋人〈無修正版〉 [DVD]

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アレックスがミシェルに残した書き置きほど美しいラブレターを、僕は知らない。
ロマンチックで、稚拙で、切実で、まるで雪の結晶のように、繊細で残酷な美しさを湛えている。

誰かが君を愛してる。君も誰かを愛するなら、『空は白』と言って欲しい。
誰かは『だが雲は黒』と答えるだろう。それが愛の始まりだ。

この単純で美しい言葉は、「愛」を正直に、端的に、気取りも照れも無く表現していると思う。


悪臭を放つゴミの山。
薄汚れたボロ布。
くしゃくしゃになった紙幣。
垢じみたセーター。
片方だけの靴。
美は、醜の中にある。


もやもやした不安と、目を覆いたくなるようなひたむきさの向こうにだけに存在する愛もある。
愛が綺麗なものだって?純粋なものだって?愛には嘘が無いって?
そんな馬鹿なことがあるもんか。



ラブレターを書いて眠れなくなったアレックスは、セーヌ川に石を投げながら夜を明かす。
石が水面を跳ねる度に「ミシェル、ミシェル、ミシェル・・・」と愛する人の名を呟く。


映画「茶の味」で言ったら、ハジメが「囲碁囲碁・・・!」と呟きながら自転車を飛ばすシーンだろう。
恋する男の無意味な行動は、世界各国で共通なんだな。


目覚めて書き置きを発見したミシェルはしかし、「冗談はやめて。二日酔いなのよ」と冷たく言い放つ。
その目の冷たいことと言ったら!男だったら誰しも、あの目に覚えがあるだろう。


愛に出口が無いことを知り、失望したアレックスは重い足取りでパリの街を歩く。
しかし空は晴れ渡り、いつもと変わらない平和な日常で賑わっている。
失恋しても、愛する人に死なれても、嵐が来るわけでもなければ、地面が割れるわけでもない。
アレックスにはそれが腹立たしくて仕方ない。
孤独や絶望というのは、平和で明るい日常の中でこそ感じるものなんだ。



だがアレックスにも、最良の日々がやって来る。
二人で砂浜までやってきて、全裸になって高い笑い声を上げながら走る。
叫んでいる言葉はただ、お互いの名前だけ。
「ミシェルミシェルミシェル!」
「アレックスアレックスアレックス!」
あぁこんなにシンプルな愛があるだろうか。


二人はそのまま砂浜で夜を明かす。
不眠症だったアレックスに対して、ミシェルは言う。
「あんたに眠り方を教えたことが誇らしいわ。愛の証よ」
しかしアレックスはミシェルが寝入ったところで睡眠薬の蓋を開ける。カポッ。
愛すればこそ、吐く嘘もある。



アレックスの愛は、どこまでも自分勝手だ。
彼女を家に帰さなければ目が見えなくなる危険性があると知りながら、二人で一緒にいることを選ぶ。
ミシェルの以前の恋人を追い払い、父親に火を付け、彼女を橋に縛り付けようとする。


もう一人の男・ハンスは、ミシェルに対して「早くここから出て行け」と言う。
ハンスはミシェルと、失った自分の妻とを重ねているのだ。
路上で生活し、生理が止まり、病気になり、実際の年齢よりも老け、
やがて死んで、セーヌ川に投げ入れられた自分の妻。
女はそのようにはなるな、と言う。


どちらも愛だろう。



映画を見終わった僕は、彼女に言った。
―――もしも僕が君を愛してるとしたら、それはきっと、アレックスの愛だろう。
それは自分勝手で、残酷で、惜しみ無く奪う愛だ。
僕は君を手に入れる為なら、君を傷付けることも厭わないだろう。


彼女はちょっとの間、目を伏せて言う。
大丈夫、傷付けたら、その百倍愛すればいいの。
そしてその百倍傷付けたら、今度の愛は一万倍になる。
それを繰り返したら愛は無限ね。


傷付けることを怖れるのは、愛することを怖れること。
雛が卵の殻を割って孵化するように、誰も傷付けない愛なんて、きっとどこにも存在しない。


彼女は「それにわたしは傷付いてない」と言って笑った。
カポッ、という音がどこかから聞こえた気がした。

恋に落ちていることに気付いた瞬間。

■ジョンとメリー
ピーター・イエーツ監督/1969/米/原題:John and Mary

ある晩、あるバーで出会った一組の男女。
彼らの会話を軸に、それぞれの心の中の声もアフレコして、男女の恋の駆け引きを描いている。
二人はそれぞれ、本音と建前を巧みに使い分けて、相手を自分の意のままに操ろうと躍起になる。


二人がベッド・インするまでの駆け引きを描くのではなく、
ベッド・インしたその翌朝から物語が始まるというところが、この映画の斬新なところだろう。
なるほど、男女の関係というのは、ベッド・インするまではどのカップルも似たような経緯を辿るのかもしれない。
しかし、その後の成り行きはそれこそ千差万別だろう。


初めのうちは恋愛ゲームを弄んでいたジョンだったが、
だんだんと自分の意のままにならないメリーにうんざりして家を追い出してしまう。


だが、ある瞬間、突然背後から殴られたように恋に落ちる。
連絡先を消してしまったことを激しく後悔しながら、家を飛び出し、彼女を探す。
タクシーを飛ばして、彼女と出会ったバーや、交わした会話の中に出てきた彼女の家周辺と思われる近辺を探し回る。
ついに見付からずにガックリと肩を下ろすジョン。
諦めて家に戻って来ると、そこには…!



その、「恋に落ちた瞬間」というのか実にリアルなんだ。
いや、正しくは「恋に落ちていることに気付いた瞬間」だな。
その瞬間、以前の恋人と話しているんだが、それは特段変わった会話ではない。
ただ、「あなたは潔癖症だから、どんな女の子でも追い出しちゃうのよね」と揶揄される。
そういう、ありふれた日常の一コマなんだ。
だが、ふとした会話が人生を大きく変えてしまうこともある。



ところで、ダスティン・ホフマンの厭味な顔って、ムカつくよね?
これって僕だけじゃないよね?みんなそう思ってるんだよね?
誰もがムカつく顔だから、人気俳優なんだよね?