イギリス的な自我と、フランス的なリビドー。

スイミング・プール
フランソワ・オゾン監督/2003/英・仏/原題:Swimming Pool

スイミング・プール 無修正版 [DVD]

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どのような解釈も可能な、曖昧な表現ばかりの映画だ。例えば―――。


・ジョンは「娘が居るかもしれない」ってちゃんと言ってたのに、
 サラは「娘が来るかもしれないなんて、一言も聞いてない!」と怒っていた。
 (しかもこれは留守電に吹き込んだ)
・ジョンから掛かってきたという電話をジュリーから受け取ったのに、電話は切れていた。
 掛け直しても留守。
・外した筈の十字架が、また壁に掛けられている(しかも2回)。
・マルセルの老女のような娘が、
 「ジュリーのお母さんが亡くなったのは不幸な事故だった」と怯えている。
・サラの執筆中、カメラが不自然に右にパンして、また戻る。
・お腹の傷のことをジュリーに聞くと「交通事故よ」と答える。
・レストランに行くと、昼はそもそも営業していないと言われる。
 フランクが寝坊しているからで、それはいつものこと、という不明瞭な理由。
・フランクを殺した理由をジュリーに訊くと「あなたの為、そして本の為」と答える。
・サラが選んだ部屋のクローゼットに置いてあった持ち主の分からない赤い服。
 後から来たジュリーのものとは思えない。


僕はこう解釈する。
「ジュリーはサラの化身であり、サラはジュリーの仮託だった」
所々で辻褄の合わない個所が出てくるのは、
お互いの存在がお互いの幻想であることから生じているのだろう。


何の根拠も無い想像だけれど、
サラはその昔、堕胎手術をして、母親になり損ねてるんじゃないだろうか。
欲望に身を任せ、自暴自棄になった結果を、サラは激しく後悔した。
自分の欲望を閉じ込めて「イギリス的/理知的/推理小説的な自我」に身を置くことに決めた。
しかし、自分の心の中にどうにも制御できない「フランス的/衝動的/ハーレクイン小説的なリビドー」があることにも気付いていた。
それは嫌悪を呼び起こすような醜い衝動だが、自分の中に確かにあるものだ。
あまりにもそれが前景化してきたことが、今回のスランプの原因だった。
ジュリーはその「フランス的なリビドー」の化身だったんだ。


一方のジュリーにも、足りないものがあった。
それは「母親」だ。
自分を褒め、導き、罰し、保護する、超越的な自我だ。
存在しない「母親」の代替として、ジュリーは13歳の頃から男を取っ替え引っ替えしては、
満たされない欠落を埋めようとした。
「男にモテて、欲望の赴くままに生きている私に、足りないものなんか無い!」と
自分に言い聞かんばかりに。
しかしそれが破綻する時がやってくる。
それはジュリーにとって最も恐ろしいことでありながら、
心のどこかで待ち望んでいた敗北の瞬間ではなかったか。
その時、ジュリーはサラに母親の面影を幻視する。
ジュリーはサラに母親を仮託したんだ。


ジュリーに母親を仮託され、相手の幻想をまともに受け止めたサラはしかし、
「母親であったかもしれない自分」を発見する。
あの時堕胎した胎児が産まれていたら、きっとジュリーくらいの年齢になっている。
それはジュリーと同じように、美しく、残酷で、反抗的でありながら、
魅力的な娘であったろう。
サラは自分の中に母性があったことに戸惑いながら、
ジュリーを保護し、慰め、力付けて、正しい方向に導いてやろうとする。



ジュリーのお腹に傷跡があるのは、堕胎手術の跡をサラが幻視した為だ。
サラはその「見えるはずの無い傷」について、何度も何度も思いを巡らせてきた。
「あれは事故だった。不幸な事故だったんだ」と言い聞かせながら。
それを他でもない自分が殺した相手の娘のジュリーに言わせることで、自らを慰めた。


マルセルの娘が、同じ台詞を吐いたことを想起されたい。
ただし、あの老人のような娘が「あれは不幸な事故だった」と何かに怯えるように供述したのは、
ジュリーの傷についてではなく、ジュリーの母親の死についてだった。
つまりは、ジュリーの傷がついたのと、ジュリーの母親が死んだのは、
同じ理由によって出来たのだということだ。


サラは考えた―――ジュリーの母親は自分であったかもしれない。
その自分は赤く情熱的な服を着、欲望に忠実で、気の向くままにプールに飛び込み、
社会的秩序から自由な存在であるだろう。
理知的で退屈な推理小説ではなく、
激しい女の情念を描いたハーレクイン小説を書いているであろう。
・・・その小説というのが、「ジュリーの母親=サラ」の書いた「スイミング・プール」であったのだ。


そして、その小説は欲望と死に彩られている。
娘を殺すということは、退屈な推理小説を書いて、欲望のない生を生きること。
逆に、娘を産むということは、情熱的なハーレクイン小説を書いて、死ぬということ。
執筆中、カメラが水平移動するのは、
その二つの可能性を行き来しながら生きる小説家の運命を暗示しているのかもしれない。



ジョンが確かに「娘が居るかもしれない」と言ったのに、サラはそれを無かったことにした。
フランスに着いて最初の電話は繋がったが、ジュリーが到着して以降は、一度も繋がらなかった。
それは娘と自分との間には「父親」は介在してはならないというサラの決意ではなかったか。
娘が産まれたのは、自分の欲望の結果だ。
それは自分の責任であり、父親は無関係だ。
サラの中では、「娘が居るなんて聞いてない!」という自分と、
「娘が居るのは自分の責任に他ならない」という自分とのせめぎ合いがあった。


堕胎手術の罪悪感から逃れる為、サラはキリスト教徒であることをやめた。
だがそれでも罪悪感は消えず、むしろ背教者というレッテルが更なる苦しみを生むことになった。
壁に架かった十字架に過剰反応し、ついには自分の手でそれを付けたり外したりを繰り返した。
「キリストは父なくして処女懐胎したマリアから産まれた」ということも特筆すべきであろう。
自分の苦しみを知っているのは、ひょっとしたらキリストだけなのかもしれないと知りながら、
サラはそれに目を背ける。



サラとジュリーの二人に、キリスト以外の超越者がいるとしたら、
それはフランク以外には有り得ない。
彼女たちの「家」は広く、何の不自由もなく住み分けられていたはずだ。
しかしフランクは二人の明確な境界線を破壊し、間に立って何かを宣告しようとした。
どんなことがあろうとも、それだけは回避しなければならなかったことだ。


ジュリーはフランクを殺した理由について「あなたの為、そして本の為」と答える。
ジュリーはサラの化身なので、彼女が言ったことはすなわちサラの心の欲求であるはずだ。
サラは新しく生まれ変わる自分と、新しい小説の為に、古い自分を捨て去る必要があった。
それがジュリーをして殺人に走らせた衝動なのであった。