傷付けることを怖れるのは、愛することを怖れること。

ポンヌフの恋人
レオス・カラックス監督/1991/仏/原題:Les Amants du Pont-Neuf

ポンヌフの恋人〈無修正版〉 [DVD]

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アレックスがミシェルに残した書き置きほど美しいラブレターを、僕は知らない。
ロマンチックで、稚拙で、切実で、まるで雪の結晶のように、繊細で残酷な美しさを湛えている。

誰かが君を愛してる。君も誰かを愛するなら、『空は白』と言って欲しい。
誰かは『だが雲は黒』と答えるだろう。それが愛の始まりだ。

この単純で美しい言葉は、「愛」を正直に、端的に、気取りも照れも無く表現していると思う。


悪臭を放つゴミの山。
薄汚れたボロ布。
くしゃくしゃになった紙幣。
垢じみたセーター。
片方だけの靴。
美は、醜の中にある。


もやもやした不安と、目を覆いたくなるようなひたむきさの向こうにだけに存在する愛もある。
愛が綺麗なものだって?純粋なものだって?愛には嘘が無いって?
そんな馬鹿なことがあるもんか。



ラブレターを書いて眠れなくなったアレックスは、セーヌ川に石を投げながら夜を明かす。
石が水面を跳ねる度に「ミシェル、ミシェル、ミシェル・・・」と愛する人の名を呟く。


映画「茶の味」で言ったら、ハジメが「囲碁囲碁・・・!」と呟きながら自転車を飛ばすシーンだろう。
恋する男の無意味な行動は、世界各国で共通なんだな。


目覚めて書き置きを発見したミシェルはしかし、「冗談はやめて。二日酔いなのよ」と冷たく言い放つ。
その目の冷たいことと言ったら!男だったら誰しも、あの目に覚えがあるだろう。


愛に出口が無いことを知り、失望したアレックスは重い足取りでパリの街を歩く。
しかし空は晴れ渡り、いつもと変わらない平和な日常で賑わっている。
失恋しても、愛する人に死なれても、嵐が来るわけでもなければ、地面が割れるわけでもない。
アレックスにはそれが腹立たしくて仕方ない。
孤独や絶望というのは、平和で明るい日常の中でこそ感じるものなんだ。



だがアレックスにも、最良の日々がやって来る。
二人で砂浜までやってきて、全裸になって高い笑い声を上げながら走る。
叫んでいる言葉はただ、お互いの名前だけ。
「ミシェルミシェルミシェル!」
「アレックスアレックスアレックス!」
あぁこんなにシンプルな愛があるだろうか。


二人はそのまま砂浜で夜を明かす。
不眠症だったアレックスに対して、ミシェルは言う。
「あんたに眠り方を教えたことが誇らしいわ。愛の証よ」
しかしアレックスはミシェルが寝入ったところで睡眠薬の蓋を開ける。カポッ。
愛すればこそ、吐く嘘もある。



アレックスの愛は、どこまでも自分勝手だ。
彼女を家に帰さなければ目が見えなくなる危険性があると知りながら、二人で一緒にいることを選ぶ。
ミシェルの以前の恋人を追い払い、父親に火を付け、彼女を橋に縛り付けようとする。


もう一人の男・ハンスは、ミシェルに対して「早くここから出て行け」と言う。
ハンスはミシェルと、失った自分の妻とを重ねているのだ。
路上で生活し、生理が止まり、病気になり、実際の年齢よりも老け、
やがて死んで、セーヌ川に投げ入れられた自分の妻。
女はそのようにはなるな、と言う。


どちらも愛だろう。



映画を見終わった僕は、彼女に言った。
―――もしも僕が君を愛してるとしたら、それはきっと、アレックスの愛だろう。
それは自分勝手で、残酷で、惜しみ無く奪う愛だ。
僕は君を手に入れる為なら、君を傷付けることも厭わないだろう。


彼女はちょっとの間、目を伏せて言う。
大丈夫、傷付けたら、その百倍愛すればいいの。
そしてその百倍傷付けたら、今度の愛は一万倍になる。
それを繰り返したら愛は無限ね。


傷付けることを怖れるのは、愛することを怖れること。
雛が卵の殻を割って孵化するように、誰も傷付けない愛なんて、きっとどこにも存在しない。


彼女は「それにわたしは傷付いてない」と言って笑った。
カポッ、という音がどこかから聞こえた気がした。