事実は小説よりも不条理なり。

■欲望(BLOW-UP)
ミケランジェロ・アントニオーニ監督/1966/英・伊/原題:BLOW-UP

若き人気ファッション・カメラマンのトーマスはある日、
公園でカップルを見かけ、彼らのスナップを撮った。
女は自分たちを撮影していたトーマスに気付き、ネガを渡すよう要求した。
要求をのらりくらりとかわし、トーマスはその場を逃れる。
スタジオに戻って現像すると、そこには意図しない、奇妙なものが写っていた。
トーマスはその写真を引き延ばす(BLOW-UP)ことで、
そこで殺人事件が起こっていたことに気付いた。


この映画の舞台は、1960年代半ば、「スウィンギン・ロンドン」華やかなりしロンドン。
当時のファッションや、音楽、車、インテリア、カメラなどが堪能できる
スタイリッシュ・ムービーだ。


「欲望」という邦題が付けられているが、
その邦題の通りに、官能映画だと思って観ると肩透かしをくらうだろう。
そこにあったのは「欲望」ではなく、「欲求」や「生理」だ。
しかもそれすらもメインテーマではない。
―――僕が邦題を付けるなら、「事実は小説よりも不条理なり」になるだろうか。


映画の中で殺人が行われたら、観客は当然、犯人や、被害者、殺害方法、動機などが、
映画の中で明かされるものだと思い込む。
それが行われないと「この映画は不条理だ」と抗議する。
だけど、現実なんて実際そんなもんだ。
現実では殺人事件を目撃すること自体、そうそう起こり得ない。
例え、そういう現場に出くわしたとしても、ストーリーめいたものが明かされることは決してない。
何の脈絡も無い、不条理な出来事ばかりが積み重なっていくだけだ。


目を閉じた状態で放置しただけのモデル達。
買っただけのプロペラ。
後部座席に置かれただけのプラカード。
遊んだだけの女の子。
拾っただけのギターネック。
行き会っただけのストリートパフォーマー


それらの事実は、ただ「起こった」だけだ。
他の事実と繋がっていくことは決してない。
そういう、お互いには何の繋がりもない無意味な事象が積み重なって、
そして何か重要な意味を持つはずだった「事件」も、少しずつ遠い過去へと押しやられていく。


「物語」を求める観客はそこに不満を漏らすだろう。
だが、総じて現実というのはそういうものだ。
だから、その現実を模倣しているはずの小説や映画だって、そうあったって一向に構わないはずだ。
ひとつひとつの出来事を引き延ばして(BLOW-UP)いったって、
あるひとつの結末を導き出すなんて、有り得ない。


公開時から「難解だ」と言われ続けたこの作品だけれど、
実はそういう「意味」を期待する観客を、嘲弄している作品なのではないだろうか。