「花」の対義語は「女」。

太宰治人間失格」1948

人間失格 (新潮文庫)

人間失格 (新潮文庫)

葉蔵と堀木はバーで言葉遊びを始める。
フランス語の名詞に「男性名詞」と「女性名詞」があるように、
日本語の名詞にも「悲劇名詞」と「喜劇名詞」があると言うのだ。

「いいかい? 煙草は?」
 と自分が問います。
「トラ。(悲劇(トラジディ)の略)」
 と堀木が言下に答えます。
「薬は?」
「粉薬かい?丸薬かい?」
「注射」
「トラ」
「そうかな? ホルモン注射もあるしねえ」
「いや、断然トラだ。針が第一、お前、立派なトラじゃないか」
「よし、負けて置こう。しかし、君、薬や医者はね、あれで案外、コメ(喜劇(コメディ)の略)なんだぜ。死は?」
「コメ。牧師も和尚も然りじゃね」
「大出来。そうして、生はトラだなあ」
「ちがう。それも、コメ」
「いや、それでは、何でもかでも皆コメになってしまう。ではね、もう一つおたずねするが、漫画家は?よもや、コメとは言えませんでしょう?」
「トラ、トラ。大悲劇名詞!」
「なんだ、大トラは君のほうだぜ」

「死」が喜劇名詞だというのがいい。うん、大出来だ。
それから今度は、対義語(アントニム)を当てるというゲームを始める。

「花のアントは?」
 と自分が問うと、堀木は口を曲げて考え、
「ええっと、花月という料理屋があったから、月だ」
「いや、それはアントになっていない。むしろ、同義語(シノニム)だ。星と菫(すみれ)だって、シノニムじゃないか。アントでない」
「わかった、それはね、蜂(はち)だ」
「ハチ?」
「牡丹に、……蟻か?」
「なあんだ、それは画題(モチイフ)だ。ごまかしちゃいけない」
「わかった! 花にむら雲、……」
「月にむら雲だろう」
「そう、そう。花に風。風だ。花のアントは、風」
「まずいなあ、それは浪花節の文句じゃないか。おさとが知れるぜ」
「いや、琵琶だ」
「なおいけない。花のアントはね、……およそこの世で最も花らしくないもの、それをこそ挙げるべきだ」
「だから、その、……待てよ、なあんだ、女か」

「花」の対義語は「女」か!
なかなか楽しそうである。



僕はこの「人間失格」を涙無しでは読むことが出来ない。
心の底から他人を怖れ、それと同時に孤独を怖れる。
誰かを心から愛するということがどうしても出来ず、かといって人を見限ることもできない。
自分自身の堕落を正面から憎みながら、どうしても堕落せずにはいられない。
そんな矛盾に満ちた人の心というものを、何の誤魔化しもなく書ききっている。


はっきり言うが、こんな作品は他に無い!
どんな私小説も、純文学も、「人間失格」に比肩しうる小説は無い。
太宰が自分を人間失格だと言うならば、僕は人間なんかに興味は無い。
太宰に寄り添って生きていくんだ。


この先にはもう何もない。
玉川上水に飛び込んでしまうしか、他に道は無いのだ。


しかし、太宰文学の通底しているのは絶望ではない。
上のような言葉遊び、ユーモア、諧謔の精神である。
どうしようもなく滑稽で、どうしようもなく愚かな人間を、
いや、自分自身を笑い飛ばす他に生きていく道はなかったのだ。


太宰が残してくれた文章群は、断じて「文学」なんかじゃない。
それは「言葉遊び」だ。
なあ、そうだろう、太宰?