911が破壊してくれたもの。

本谷有希子腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」2005

腑抜けども、悲しみの愛を見せろ (講談社文庫)

腑抜けども、悲しみの愛を見せろ (講談社文庫)

少し容姿がきれいなだけで、演技の才能など皆無なのに、
自分こそは特別な選ばれた人間であり、唯一無二の女優になるのだと頭から信じ込んでいる長女の「澄伽(すみか)」。


そんな姉をヒロインにして、嘲笑するような漫画を書いては雑誌社に投稿し、
姉の逆鱗に触れ、その後は長女の復讐に耐える次女の「清深(きよみ)」。


腹違いの妹「澄伽」と、不幸を絵に描いたような妻との間に挟まれ、
崩壊寸前の家族を何とか支えようとする長男の「宍道(しんじ)」。


生まれてすぐにコインロッカーに捨てられ、養護施設に育ち、
最悪より少しマシくらいの生活を続けながら、不幸の中にしか幸福を見出せない宍道の妻の「待子(まちこ)」。


両親の突然の事故死で、澄伽が故郷に戻ってきたことにより、4人の奇妙で緊張感に満ちた共同生活が始まる。



澄伽の登場により、4人の中で何かが変わった。
いや、変わったというのは正確でない。
今までだって、どこかが変だったのだ。


ちょうど 2001年9月11日に、ニューヨークで起こった事件と同じだ。
それ自体が何かを変えたのではない。
ビルがいくつか無くなっただけで世界は変わったりはしない。
今まで巧妙に隠蔽されていた、世界の本当の構図がはっきり示されたのだ。


澄伽の帰省により、あるものが姿を現した。
あるものとは「真実」のことである。



澄伽の前には、「自分には特別な才能など無く、女優になるなんて永遠に無理」という、受け入れ難い真実が姿を現す。
清深には、「自分は両親の死や、姉の不幸までが漫画のネタとしか捉えられない悲しい人間である」という、残酷な真実が、示される。
宍道には、「自分が心から求めた理想の家庭など何処にも存在しない」という、絶望的な真実が口を開ける。
待子には、「自分には人並みの幸福を求めることさえ、一瞬も許されない」という、無残な真実が迫ってくる。


そして4人の中にあった幻のワールド・トレード・センターには、手際よくハイジャックされたボーイング767-200が突入する。
轟音とともに摩天楼は崩れ落ち、後に残されたのは瓦礫の山ならぬ、細かく千切られた赤い便箋の山であった。



誰だって残酷な真実となんて向き合いたくはない。
しかし、真実と向き合うという辛い作業を通してのみしか、真実から自由になることは出来ないのだ。