妄想と想像の違い。

ドストエフスキー地下室の手記」1864

地下室の手記 (新潮文庫)

地下室の手記 (新潮文庫)

極端な自意識過剰から、他人とのコミュニケーションを苦痛としか感じられない小官吏の主人公。
些細なことで侮辱されたと言っては傷付き、とうとう自らを半地下のアパートに幽閉してしまう。
そのまま40年間も閉じ篭ったままで、独り言を呟く。


世界に対して故無き優越感に浸っては、それを理解しない世人を愚鈍だと言っては呪詛する。
その一方で迫ってくる劣等感に押し潰されそうになりながら、自らの過去の失敗を舐め尽くす。


その無益で、下らない妄想の数々には、微苦笑を禁じえない。


例えば、彼は世界中から祝福されるような英雄・聖人になることを夢想する。
全ての闘いに勝利し、しかし全ての敗者を許す。
巨万の富を手にするが、直ちにそれを全人類に寄贈する。
裸足で飢えながら新しい思想を説いて回ると、みなが自分に泣きながらキスをする。
特赦が発せられ、ローマ法王はブラジルへ遷都することを許される。
コモ湖はローマに移され、自分を祝福する舞踏会が開かれる。


こんな空想を地下室に閉じこもりながら何ヶ月も続けているのだ。
(ドストよ、お前、どんだけ友達居ないんだ笑)



しかし、このような妄想は、きっと誰もが一度は経験があることだろう。
いや、一度どころか毎日だってしているはずだと思う。


かくいう僕にも、よく慣れ親しんだ空想がある。
「もし、音楽が禁止された世界があったら?」というものだ。
その世界でこっそりと聴くメロディーはどんなに甘美だろう!


頭がおかしいと思われるので、僕の妄想の話はこの辺でやめておくが、
想像力というものは、いつだって現実の可能性を含んでいなければならないものだ、と僕は思う。


優れたゴルフプレーヤーは、必ず次の自分のショットを想像する。
自分がどのようなスイングでショットをして、
ゴルフボールがどのように飛んでいき、
どのように転がっていくのかを想像する。
カップインの音や、表彰台の笑顔、今夜のパーティの様子までが想像出来たとしたら、
もう彼の勝利は彼の手の中にあるも同然だ。


棋士が二十手先まで読むように、ダンサーは自分の身体の動きを頭の中で再現させる。
裁判官がその日の訴訟の行方を知っているように、キャッチャーはその試合の全ての配球を瞬時に組み立てる。


そこまでの想像力を持てるかどうかが、その人の才能なのだ。



しかし、現実不可能なことばかりを妄想しているばかりの僕とは違い、
ドストエフスキーは圧倒的な想像力を持っている。


その作品は広く世界中から愛され、百年以上経った今でも影響力を失っていない。
彼の頭の中の出来事は単なる妄想ではなく、実現可能な想像の力であったということだ。
この小説はモノローグ(独白)の形を取ってはいるが、実際はドストと読者のダイアローグ(会話)なのだ。


彼は薄暗い穴倉の中で、未来の社会について夢想する。
いつの日か理性によって完璧な水晶宮が打ち立てられれば、
自分の嗜欲の通りに行動しても、社会のルールを逸脱しなくなるだろう、との主張に対し、
人間存在は非合理で、不条理なものゆえ、そのような理想宮は立てられるはずも無いと反論する。


そう、彼の想像力は確かに、人間の本質を捉えている。
現実可能かどうか、それが妄想と想像の違いなのだ。