イエスの愛とユダの愛。

三浦綾子「イエス・キリストの生涯」1981

イエス・キリストの生涯 (講談社文庫)

イエス・キリストの生涯 (講談社文庫)

本来、接吻は愛の現われである筈だ。
憎い人間、嫌いな人間に対してとても接吻などできるものではない。
たとえ娼婦でも、少し根性のある女は、客に唇を許さぬものだと聞いたことがある。
その唇は、自分が心から愛するただひとりの男のために、大事にしているということだろう。


唇は、言ってみれば、人間の心を現す重要なものかもしれない。
私たちの唇から出る言葉は、魂から出る言葉の筈だ。
そしてまた、私たちの命を養う糧も、この唇を通って体に入る。
私たちの霊性にとっても、肉体にとっても唇は重要な関門と言えよう。
この唇を許すということは、誰にでもなすべきことではない。


だがイスカリオテのユダは、イエスを敵の手に渡すために接吻をした。
接吻によってイエスを売ったということは、ユダ自身の魂をそっくりサタンに売り渡したことでもあったのだ。

「ユダのキス」は本当に、愛の現われではなかったのだろうか。
愛の人・イエスは、ユダに裏切られて哀しかったろうか。


ローマ帝国の官憲がイエスを探しに来たとき、ユダはイエスにキスをすることによって、
エスがその人であることを官憲に伝えている。
エスを官憲に引き渡したユダは、現代も裏切りであるとして責められ、蔑まれ、虐げられている。


だから「ユダのキス」という言葉は「上辺だけ親愛を示しながら、相手を裏切ること」という意味に使われる。
しかし、この「ユダのキス」は本当にそのような薄汚いものだったろうか。


エスは最後の晩餐のときに、
「特にあなたがたに言っておくが、あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」(マタイ26章21節)
と言われた。
全知全能の神の子であるイエスは当然、ユダがこれから何をするのか知っていたのだ。
エスはユダに対して、言う。
「しようとしていることを、今すぐしなさい」(ヨハネ13章27節)
ユダはイエスのこの言葉に従って、部屋を出て行く。



ユダの行為によって、イエスは十字架刑に処されるのであるが、それは全人類にとって、必要なことであった。
エスが全人類の罪を背負って代わりに磔にされたことによって、人々は罪から救われ、浄められた。


そして十字架刑を必要としていたのは、なにも人類の側だけではない。
エスの側も、人類への愛を貫き通すために、心から十字架を必要としていたのだ。



エスにとってユダは、唯一無二の特別な弟子であった。
聖書の中でもユダは十二使徒と対比して書かれている。
十二使徒は既成概念に囚われた、イエスのことを本当には理解していない人たちであったが、
ユダだけは、イエスの本当の理解者であり、最良の心の友だったのである。


十字架にかけられたイエスは一度死に、三日後に蘇る。
そうして人々は、イエスが救世主だったことを知る。
ユダの裏切りは、その奇跡を起こす為に必要なことだったのだ。


エスは、人間であるユダに「裏切り者」の汚名を着せ、自らの欲望を貫いた。
その一方でユダはイエスの望むまま「裏切り者」の汚名を引き受け、
この汚れきった世界にイエスを縛り付ける肉体から解放し、
エスにその愛を全うさせ、全人類の罪を背負って死ぬという快楽を体験させた。


いや、ユダが自己犠牲をしてイエスに尽くすことを至上の喜びと感じるだろうことを、イエスは知っていたのだろう。
だからこそ、「しようとしていることを、今すぐしなさい」と言ったのだ。
愛は、お互いの存在を至高まで高める力を持っている。
二人の間にある愛は、お互いの存在を強く結び、全人類の罪さえも浄化させた。



ユダが裏切ったのはイエスではなく、全人類である。
自らを「裏切り者である」と欺き、イエスへの愛を貫徹した。
「ユダのキス」は、心からの愛の証であったのだ。