太陽と死がもたらす自由。

アルベール・カミュ「異邦人」1940

異邦人 (新潮文庫)

異邦人 (新潮文庫)

ムルソーは死んだ母親の前で涙も見せず、平然と煙草に火を付ける。
葬式の翌日には海水浴に行き、海で出会った女と喜劇映画を見て笑い転げる。
理由も無く殺人を犯し、死刑を宣告される。
神との和解を説きに来た司祭を、「消えてなくならなければ焼き殺すぞ」と追い出す。


事実だけを抜き出せば、誰とも相容れない冷血漢のようだが、この小説を読んだ者は誰しもムルソーに共感し、
「このムルソーとはまさに自分のことだ」と錯覚するに至るだろう。


それは彼が、あらゆる偽善、あらゆる嘘を拒絶しているからだ。
彼が死んだ母親の顔を見ようともせず、涙も流さないのは、母親を愛していなかったからではない。
そこにある死体がもはや母ではないと知っていたからだ。


僕らは母親を亡くした時、「薄情な息子だ」と後ろ指を差されるのを恐れるあまり、
大袈裟に嘆き悲しんだり、まるで死体がまだ生きているかのように話し掛けたりする。
ムルソーはそれが、母への愛情と何の関係も無いことを知っているのだ。


後にムルソーは弁護士に「母親が死んだ時に苦痛を感じたか?」と尋ねられる。
彼はその問いにひどく驚き、
「もちろんママンを深く愛してはいたが、それは何ものも意味していない。
 健康なひとは誰でも、多少とも、愛する者の死を期待するものだ」
と答える。


何という、正直で感動的な答えだろう!
しかし僕らには、このような誤解の危険性を孕んだ発言をすることは、いつ何時にも許されてはいない。
僕らはそこで、不幸で不自由なはずの死刑囚・ムルソーを羨むに至るのだ。


また、その母親の死の翌日に関係を結んだマリイとは、以下のような会話が交わされる。
「あたしと結婚したい?」
「マリイの方でそう望むのなら結婚してもいい」
「あなたはあたしを愛している?」
「前にも一ぺんいったとおり、それには何の意味もないが、恐らく君を愛してはいないだろう」
「じゃあなぜあたしと結婚するの?」
「そんなことは何の重要性もないのだが、君の方が望むのなら、一緒になっても構わないのだ。
 それに結婚を要求してきたのは君の方で、私の方はそれを受けただけのことだ」
「結婚というのは重要な問題よ」
「違う」
「同じような結びつき方をした、別の女が、同じような申し込みしてきたら、あなたは承諾する?」
「もちろんさ」
「あなたがあたしを愛しているかどうかわからないわ」
「私には何もわからない」
「あなたは変わっている。きっと自分はそのためにあなたを愛しているのだろうが、
 いつかまた、その同じ理由からあなたが嫌いになるかもしれない」
「・・・」
「あなたと結婚したい」
「君がそうしてほしくなったらいつでもそうしよう」


多くの女性はこんなことを言われたら、憤慨して結婚どころではないだろう。
その点でマリイは賢い女性である。
あるいは、ムルソーの魅力に取り憑かれて、この点では妥協しているのかもしれない。


しかし僕は、この会話を見て、何て正直で、何て誠実なんだろうと思った。
およそ地上の全ての男が結婚に至る決意は、上のようなものだ。
それは間違いない。
異を唱えるのは妻の目を恐れる恐妻家か、結婚する資格の無い幼児のような男だけだ。
(こんなことを言うと反論不可能な命題は科学的ではないと糾弾されそうだが)
とにかく、成熟した男はこのように結婚するし、そうでなければ結婚はうまくはゆかない。


にも関わらず、男は女と結婚するために、74回「愛している」と言い、
41回「君は特別な女性だ」と言い、29回「ほかの女との結婚なんて考えられない」と言う。
合計144回の嘘と不誠実の上に結婚は成り立つのだ。


ムルソーはこのような嘘を排した正直な生活を望んでいたということだ。
しかし、彼は単に異性愛や結婚に何の希望も見出せないような虚無的な人間ではない。
断じて違う。
彼は絶対的なパワーと、圧倒的な真理を希求する情熱に燃えるリアリストなのだ。


彼が何よりも愛したのは、太陽である。
アフリカ・アルジェリアの、一片の影も残さないような凶暴な灼熱の太陽である。
彼はその殺人の理由を裁判長に問われて、
「それは太陽のせいだ」と答える。


その母親の死に涙を見せなかった、と言う理由で、
彼は陪審員から「異邦人」のように見られ、死刑を宣告される。


ムルソー」とは、死を意味する「mort」と、太陽を意味する「soleil」の合成語である。
彼はその名の通り、太陽の真実の前に、死を受諾する。
死刑執行を待つ独居房で、彼は圧倒的な自由と幸福を得るのだ。