知恵の実の獲得と、楽園の追放。

アバター
ジェームズ・キャメロン監督/2009/米/原題:Avatar

地球資源を使い果たした人類は、ついに宇宙への侵略を開始した。
人間たちは「アバター」と呼ばれる、先住民そっくりの身体を作り出し、
その入れ物に自分の意識を送り込んだ。
アバターの身体を借りて自由に行動出来るようになった彼らの任務は、
その星の住民・ナヴィたちと交流し、地下資源が多く眠る森から移住するように説得することだった。


スカイ・ピープル(地球人)の一員であるジェイクも、
アバターに意識を送り込み、ナヴィたちと合流した。
大きな足を使って大地を踏みしめ、強靭な両腕を使って木に登る。
全身を使って泳ぎ、駆け足で山に登り、ドラゴンに跨って自由に大空を翔けた。



この映画は、観客に3Dメガネを掛けさせ、
アバターの感じた興奮、快楽を追体験させることに主眼が置かれていた。


いやしかし、それはあくまでも入り口。
本当のテーマはその先のアニミズムにある。



アニミズム」とは、言葉を持つ前の人類が共通で持っていた、原始宗教的な思考のことだ。


太古の人類は、「すべてのものには魂がある」と感じていた。
それも、「個」ではなく、「種全体」がひとつの意識を共有していた。
「個」に捕われず、人類全体、地球全体、宇宙全体と合一する、
言わば「スーパー・ナチュラル・ハイ」の境地に身を置いていたのだ。



「言葉の無い世界」というものを想像できるだろうか。
「言葉」とは「あれ」と「これ」、「わたし」と「あなた」を区別するものである。
言葉が無ければ、「あれ」と「これ」を区別せず
「わたし」と「あなた」が溶け合い、
「未来」も「過去」も存在しない。


古代のやまと言葉には、「わたし」と「あなた」の区別が無かった。
一人称であるはずの「あ」、「な」、「われ」は簡単に二人称に転用された。
今でも主語を省略したり、相手のことを「われ」、「自分」、「おのれ」と呼ぶ習慣が残っているだろう。



言葉が無ければ、意識を身体の内側に縛り付けるくびきも無い。
どんなに離れた対象でも、意識を共有しているので、
遠く離れた場所に居る人や、精霊たちともテレパシーで通じ合うことができた。


時間の感覚が存在せず、距離も障害にならないならば、空間もまた存在しない。
永遠の現在に住み、何の悩みもなく、あらゆる場所に同時多発的に存在し、
宇宙を所有し、あらゆる魂と融合する、桃源郷だ。



しかし人類は、大脳皮質を爆発的に発達させ、「言葉」を獲得した。
人類はあらゆるものを分類・区別し、「すべてがひとつだ」という感覚を捨て去ることになった。
意識を「個」の中に縛り付け、左脳的な知性を獲得した。


完全に主客の区分を確立した現代人であっても、
アニミズム」から完全に切り離されたわけではない。
誰もが物心がつくまでは、そういう意識を持っていたはずだ。
胎児は母親のお腹の中で、羊水にゆらゆらと浮かびながら、宇宙を感じている。
産まれたばかりの赤ん坊も、母親と自分を区別せず、いかなる自意識からも自由だったはずだ。


だが言葉を覚えることで、「個」の意識が芽生え、その蜜月も終わりを告げる。
世界中のあちこちで「知恵の実を食べたことで、楽園を追放される」という神話が見られるのは、
決して偶然ではないのだ。



ナヴィたちは、ホーム・ツリーと呼ばれる巨大な樹木に霊性を見出し、信仰の対象としている。
ジェイクは呟く。
「彼らをホーム・ツリーから立ち退かせるような取り引きをすることは不可能だ。
 彼らは決して、ジーンズや、コカ・コーラを欲しがることは無い」
そのコカ・コーラ社が、この映画のスポンサーに名を連ねているのは、一体何の皮肉だろうか。


この作品は、白人的/西欧的/アメリカ的な、
自己中心主義、侵略行為、欺瞞、偽善を糾弾している。
だがその映画が、3D映像という新しい武器を持って世界中を侵略し、
莫大な興行収入を得て、アメリカの経済に貢献しているというのは、一体何の皮肉だろうか。


悲しいかな、ハリウッド映画というのはどこまでいっても、
白人的/西欧的/アメリカ的であることから逃れられない。
知恵の実を食べた者は、それをいくら後悔しようとも、永遠に追放される運命を背負っているのだ。