マトモの国のアリス。

アリス・イン・ワンダーランド
ティム・バートン監督/2010/米/原題:Alice in Wonderland

アリス・イン・ワンダーランド [DVD]

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アリスの世界観は確かに、ティム・バートンの持ち味とかなりマッチすると思う。
幻想的で、マッドで、皮肉に満ちている。
本作は原作に忠実に作られたものではなく、
大人になったアリスが、再びワンダー・ランドに帰ってくる、という設定だった。
しかしアリスには当時の記憶はほとんど失われており、
奇妙な仲間たちもあれはかつてのアリスなんだろうかと噂話をするのだった。
原作をそのまま映像化するよりも、この方が創造的で楽しい映画製作が出来るだろう。
僕もティム・バートンのアリスの世界に引き込まれていった。
ちなみにティム・バートンのアリス世界は「ワンダー・ランド」ではなく、
「アンダー・ランド」らしい。まぁ、らしいと言えばらしい。


しかし、きっとルイス・キャロルが見たら怒り出すだろうな。
彼は純粋なロリコンだった。
13歳になったアリスを見ても、
「何もかもが変わってしまった。とても良い方向に変わったとは言えない」
と嘆いていていたくらいだ。
物語の中でも「7歳でやめときな!」とハンプティ・ダンプティに言わせている。
大人になったアリスの物語なんて!
キャロルに言わせれば、作品に対する情熱の90%は失われていることになるだろう。



今回の映画には、「不思議の国」だけでなく、
「鏡の国」に出てくる「バンダスナッチ」や「ジャバウォッキ」も出てきた。
やはりキャロルの作った天才的なジャバウォッキの詩は、
ティム・バートンにも大きな影響を与えたようだ。


今回のアリス作品は、映画のカタルシスを分かりやすく抽出する為、
「アリスがジャバウォッキを倒す」という最終目的が掲げられていた。
「闘いへ向かっていくアリス」というのは、
この前映画で観た「マッチョなシャーロック・ホームズ」と同じくらいの違和感がある。
でも完全に原作を無視している訳ではない。
ジャバウォッキの首が切り落とされて殺される、というのは、
キャロルが詩の中でちゃんと書いているのだ。


キャロルのつくったジャバウォッキの詩は、「かばん語」で書かれている。
かばん語とは、二つの意味が一つの言葉に詰め込まれている
―――まるで旅行かばんのような言葉のことである。
あぁ、現代の文学は、キャロルのような「言葉を創る」という役割を、もはや終えてしまったのだ。
今新しい言葉だらけの小説を作っても、「誤っている」と冷たく指摘されるだけだ。
言葉が創られていくには、言葉の誤用が大幅に許容されていなければならない。
ちょうど2ちゃんねるのように。僕も言葉の間違いを指摘するのはなるべくやめよう、と思った。



果たして、3Dである必要はあったのだろうか?
ディズニーのアリスに出てきたチェシャ猫は、ペタリと夜空に貼ってあるような二次元の三日月が、
急にニタリと笑う猫になるという変換がとても面白かったのだ。
三次元になったことで失われることもあるんじゃないだろうか。


それにしても、3D映画、本当にブームだ。
このまま全ての映画は3Dが当たり前、ってことになるのだろうか。
3Dのアダルトビデオが出たらしいという話を聞いた。
ってことは、映画だけでなく、アダルトビデオも、ゲームも、テレビも、新聞も、小説も、駅の電光掲示板も、学校の黒板も、みんな3Dになっていくということだろうか。
未来の母親は子供たちに、「昔はみんな二次元だったのよ」とか言うのだろうか。
かつて僕の母親が、「昔のテレビは白黒だったのよ」と言っていたように。
3Dになったら表現の幅が広がるなんて、嘘なのに。



僕は白の女王より、断然赤の女王派だ。
醜くて大きな頭を持ち、誰に愛されることもない、尊大な女王。
まさにワンダーランドの住人にぴったりだ。
僕は優しくて、美しく、誰にでも愛される白の女王になんて、共感出来ない。


分かりやすい敵役をやっつけるという点では、完全に安易なハリウッド映画には違いない。
一緒に見た友人は、「アリス、主人公だけど、特に何もしないし、要らなかったよな」と言っていた。
もちろんそれは大きな間違いで、一人まともなアリスが居るからこそ、
周りの登場人物たちの奇矯さが浮かび上がってくるのだ。
アリスだけが読者/視聴者の感覚を代表するような常識人だという点では、原作に忠実に出来ている。


ジャバウォッキに対応する態度が映画の最初と最後で異なるのは、
アリスがこの物語を通して、観客と共に成長するからに他ならない。
アリスはいつもニュートラルなのだ。


それから、と僕は考える。
僕が「不思議の国のアリス」を底本にして、パロディ小説を書くとしたら、どうするだろう?
アリス一人が狂人で、他の登場人物たち(ウサギや、赤の女王や、ハンプティ・ダンプティのことだ)が
みんなマトモという設定だったら面白いのじゃないかと思った。
「ひとりだけマトモ」というのと、「ひとりだけ狂人」というのは全く等価なので、
きっと、物語は同じような展開を見せるだろう。
狂ったアリスの目を通して、このマトモな世界を観る、というのも面白い試みじゃないだろうか。
題して「マトモの国のアリス」!どうかな。