西欧文明のついた小さなため息。

パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド
ゴア・ヴァービンスキー監督/2007/アメリカ/原題:Pirates of the Caribbean: At World's End

「昔の世界はもっと広かった」とキャプテン・バルバロッサは呟く。
それに応えてキャプテン・ジャック・スパロウは言う。
「いや、世界は変わっちゃいない。ただ、あまり面白くなくなった」


二人の呟きは彼らの感慨というだけではない。
この映画シリーズの主題であり、この映画を製作したディズニーの嘆きであり、
また同時に西欧文明のついた小さなため息なのである。



羅針盤の発明によって大型帆船が大洋に乗り出した大航海時代
世界を読み解く方法は、今よりずっとシンプルだった。


キリスト教を精神的な支柱として、スペイン、ポルトガル、イギリス、フランスなどの国々は、
世界帝国を形成し始めた。
アジア、アフリカ、そして新大陸へ、我先にと船を進ませた。


遭難、難破、イスラム勢力との交戦、海賊の襲撃、飢餓、疫病・・・。
航海には多大なるリスクを伴った。
しかし「額に流れる汗、腕っぷしの強さ、そして勇ましい心」を持ち、
海の女神(=カリプソ)に愛されていれば、莫大な富を手中にすることも可能であった。


金、銀、象牙、鯨油、絹、塩、香辛料、奴隷・・・。
彼らはその目に映ったもの全てを奪い、殺し、犯した。
インカやアステカを征服し、原住民を酷使、あるいは姦淫し、略奪の限りを尽くして、滅ぼした。


彼らには「正義」があった。
キリスト教を信じない者は、人間以下の野蛮で未開な存在であり、
殺すのに何の罪悪感を覚える必要も無かった。
宣教師を送り込んで彼らをキリスト教化することは、まったき「善意」であった。



前作の「デッドマンズ・チェスト」には、「邪悪な人喰い人種としてのカリブ族」が登場する。
カリブ族が人を食うというのはもちろん真実ではない。
西欧人たちが自分たちの侵略行為を正当化する為に貼った言われなきレッテルだ。
ディズニーの撮影クルーは現地住民の頬を札束で引っ叩いてエキストラ出演させたという。


もちろん、差別は褒められたことではない。
しかし、差別表現のある映画なんて、吐いて捨てるほどある。
むしろこの映画には、どうしてもそのような差別表現が必要であった。


アメリカ経済が失墜しつつある今日において、
彼らのノスタルジー大航海時代に向くのも不思議なことではない。
それは、世界中を植民地にすることで、台頭するイスラム勢力を押しのけ、
西欧中心主義、白人至上主義が始まった時代であった。


ホワイト・パワーの根源が差別にあることは、ドイツ・ナチスの例を挙げるまでもない。



そうして見ると、冒頭に挙げた会話の意味も違って見えてくる。
彼らは自ら病んでいることを自覚しながら、それでもその酩酊を求めずにいられない
――重度の慢性中毒に苦しんでいる。


失われてしまった「世界の果て(world's end)」を夢見て、
キャプテン・ジャック・スパロウは小さな船で出発する―――そこで映画は終わる。
ハリウッド映画は、いつからこんなに哀しくなったのだろう。