倫理的であるということは、立ち止まって考えるということ。
遠藤周作「海と毒薬」1958
- 作者: 遠藤周作
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1960/07/15
- メディア: 文庫
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第二次世界大戦末期の九州。
F市の大学病院の研究員である勝呂(すぐろ)は、患者の生と死の間で考えていた。
助かる見込みのない患者が助教授の実験台になったり、
医学部長の親類の患者が出世の道具になったりすることに憤る一方で、
教授たちに反対することも出来ないでいた。
そんな中、軍指導部の命令の下に、本土空襲で捕虜となったB-29の搭乗員を、
軍医学の発展の為に生体解剖する、という人体実験が行われることになる。
勝呂はそれに参加することを要請された。
安楽死、尊厳死、妊娠中絶、代理母、脳死、臓器移植、クローン技術・・・。
生命倫理学が学問として扱う対象には様々なものがある。
そのいずれもが深く、重いテーマを孕んでいる。
膨大な議論が重ねられているが、医学の進歩だけで解決する種類の問題ではないことだけははっきりしている。
医学とは、生命を扱う学問である。
そこに倫理が問われるのは当然のことだ。
患者が苦しんでいて、治る見込みが無いのなら、楽に殺してあげるべきだろうか?
治療方法が無く、延命措置しか取れない場合、患者が望めば自然死を迎えさせるべきだろうか?
経済的、肉体的に出産が難しい場合、お腹の胎児を殺しても許されるだろうか?
着床や出産が難しい場合、第三者の子宮を借りて出産することは望ましいのだろうか?
脳の一部が壊死したことを以って、心臓が動いている人を、死者と解釈しても問題無いのだろうか?
脳死者から取り出した臓器を、第三者に移植することは許容されるのだろうか?
ヒトの遺伝子をコピーして、クローン人間を作ることは罪悪になるのだろうか?
あなたはこれらの設問にすらすらと答えることが出来るだろうか?
僕は出来ない。
しどろもどろになって言うだろう。
「うーん・・・延命措置しか無いんだったら、それは避けた方がいいのかも・・・
でも、すべての人間は死ぬ、と言う意味では、 あらゆる医療行為は、全て延命措置だということになる・・・
それなら、行き倒れになっている人に手当てをすることは非倫理的だということか・・・それはおかしい・・・
経済的な理由で赤ちゃんを殺すなんて、考えてみればひどいよな・・・
じゃぁそもそもセックスする時にコンドームをつけることは、いけないことなんだろうか・・・
赤ちゃんは殺しちゃ駄目で、精子はいいというのなら、その根拠は・・・?」
僕は上記のような質問に全て即答出来るような人を「倫理的」だとは思わない。
立ち止まって、何時間も考え込んで、その後でようやく「僕が思うに・・・」と話し始める人こそが倫理的なのだと思う。
最終的に出した答えがどちらであれ、それは大した問題ではないのだ。
上記のような設問に答えることが難しい理由は、「一体誰が許すのか」ということが不明瞭だという点にある。
神か?人間か?奪われた、あるいは生まれてきた生命か?
「許す」主体がはっきりしないままに、「許されるかどうか」を議論したって、答えが出る訳が無い。
この物語の主人公・勝呂も、立ち止まって考える。
誰も彼もが死んでいくこのご時世においては、捕虜だってどうせ殺されてしまう。
生体実験を行うことで、肺結核患者の治療法が分かり、何千何万人の命が救えるとしたら、どうだろう?
大学病院の医師たちは、そうして生体実験に踏み切った。
それは本当に「非人道的で、怖ろしい背徳行為」だったのだろうか?
難しい設問だ。僕には答えることが出来ない。