一言も喋らず、決して後ろを振り返らず。
- 作者: 深沢七郎
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1964/08/03
- メディア: 文庫
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お姥捨てるか裏山へ
裏じゃ蟹でも這って来る
這って来たとて戸で入れぬ
蟹は夜泣くとりじゃない
ある信州の山深い村に伝わる棄老の因習―――
それを題材に取った、まるで民族学の論文のような小説である。
この貧しい村においては、白米は年に一度の楢山祭の時や、よくよくの重病人でなければ食べられない。
たった三日間寝込んだだけで、白米を炊いた、と贅沢を諌めた歌までが伝わる。
極端に食料が不足しているこの村では、早くに嫁を貰うことは愚かなことだと考えられる。
限られた食料がまた減ることを意味するからだ。
「曾孫が生まれる」ということは、三代も多産や早熟の者が続いているということで、嘲笑の対象となる。
老いても尚、丈夫な歯を持っている、ということも恥ずべきこととされる。
食い意地が張っていて、浅ましいと見做されるのだ。
そしてこの村では七十になった老人は、裏の山へ捨てられることになっている。
息子が背板に自分の年老いた親を乗せ、ゆっくりと楢山に登っていく。
一言も喋らず、決して後ろを振り返らず。それが山の掟である。
現代の日本社会では、お年寄りは大事にして、少しでも長生きをして貰うことがめでたいことだと考えられている。
しかしこの村では、それは浅ましく、自分勝手で、恥ずべきことなのだ。
ここでは信じられないような価値観の逆立が起こっている。
「善」と言うのは、その時代、場所、共同体や状況によってコロコロと変わってしまうものである、
古代ギリシャでそう主張したソフィスト達を、ソクラテスは痛烈に批判した。
「善」とは、普遍の真理である、状況によって変わるものなど、真理たり得ない、と。
その考え方は弟子であるプラトンにも引き継がれる。
イデア論の中で、「善のイデア」はあらゆるイデアの中心にあり、最高のイデアに位置付けされている。
善の本質は、見ることも触ることも出来ない、永遠不滅の絶対的なものである、と。
果してそれは本当だろうか。
善というのは触れることの出来ない、普遍の真理なのだろうか。
ポストモダニスト達の主張は、むしろソフィスト達の立場に近い。
善は両者の合意によってしか成立しない、相対的なものだとされている。
確かに、暗黙の了解で、前提の合意を省くと言うのは危険な行為だろう。
僕は「みんなが自分と同じように行動することを希求するような生活」こそが善ではないかと思う。
渋滞の高速道路で路肩を走行するドライバーがある。
あるいは行列に横入りをする人があったとする。
彼らの行為は、他の全員がルールを守った場合にしか、利益が無い。
みなが彼らと同じ行動を取ったならば、彼らにアドバンテージは無くなる。
路肩走行や行列の横入りに限らず、他者を出し抜くことによって、自己の利益が最大化するような生活は善ではない。
ゴミを拾い、困っている人を助け、周りの信頼に応え、
「みんなが自分と同じようにしてくれたら快適な世の中になる」と思えるような生活こそが善なのではないか。
もちろん、「すべての他者が自分と同じように振舞う」ような社会はどこにも存在しない。
「他者」の定義から言っても、それは有り得ない。
しかし、「自分のような人間ばかりだったら、社会が快適になる」ような自己を形成することが、倫理学の最終的な目的ではないだろうか。
それはなにも、「常にルールを逸脱せず、社会的・政治的に正しい行動をし、自己を犠牲して他人に奉仕する人間になれ」ということではない。
周りがそんな人ばかりだったら、僕は息苦しい。
もちろん、「常にルールを逸脱して、迷惑行為を繰り返し、利己的にしか振舞えない人間」ばかりの世の中も困る。
大事なのは、そのバランス感覚だと思う。
僕自身は「基本的には利己的に振舞っていて、時々迷惑も掛けるけれど、自分の得意分野ではオーバーアチーブを発揮する人間」でありたいと思っている。
周りがそのような人ばかりであれば、どんなに快適か、と思う。
「姥捨て」は、超高齢化社会を迎えた今、決して「昔の話」で片付けられる話ではない。
限られたリソースをどのように分配するのか、そしてその分配ルールに要請される正義とは、善とは何か。
決して弱者を切り捨てろと言いたい訳ではないが、この閉塞的な状況を打開するためには、
今常識と考えられている善や正義を、メタ次元に引き上げる必要があると思う。