僕らはみんな、オリジナルなきコピーだ。

島田雅彦「未確認尾行物体」1987

未確認尾行物体 (文春文庫)

未確認尾行物体 (文春文庫)

皇太子の学友でもある、エリート医師・笹川賢一は、ルチアーノという正体不明のオカマから執拗なつきまといを受ける。
朝、家を出たときから尾行は始まり、レストランで食事をすれば隣の席でルチアーノが同じメニューを同じ順番で食べる。
大学でも、病院でも、愛人との密会の場でも、笹川氏の居る場所にはどこにでも姿を現す。
送り主の名の無い花束や、妻の浮気の証拠、息子のための子供服までも送って寄越す。
しかし、「彼女」が笹川氏に与えた最大のプレゼントは、「エイズ」であった。



エイズ―――後天性免疫不全症候群
そのウィルスである HIV特異点は、レトロウィルスの一種であると言うことだ。
レトロウィルスとは、遺伝物質として RNA をもち、宿主の体内で逆転写を起こすことにより、DNA を合成するウイルスの総称である。


通常の生物がその遺伝情報を DNA で持っているのに対し、レトロウィルスにはそれが無い。
DNA の代わりに RNA を持っているのだ。
宿主の体内に侵入すると、逆転写酵素の働きにより、RNA から DNA をつくり、宿主の DNA の一部として組み込んでしまう。
こうなると宿主は、それを自己なのか、他者なのか、判断することが出来なくなる。
このようにして、免疫が働かなくなるのだ。


レトロウィルスの発見は、それまでの DNA 神話を覆すものであった。
それまでの遺伝学は、遺伝の主人公は DNA であり、それこそが生命の起源であり、神そのものであるかのように信じられていた。
しかし、レトロウィルスの持つ RNA から、逆に DNA が作られることが判明したおかげで、DNA は神の座を転げ落ちる。


僕らの神はコピーのコピーだったのだ。
そう、生命の本質なんか、どこにもない。
僕らはみんなシミュラクル、オリジナルなきコピーなのだ。



エイズの出現は皮肉にも、遺伝学・免疫学を大きく飛躍させることになった。
現在では、レトロウィルスが DNA への情報を出し入れすることによって、突然変異を促し、生命の進化に大きく寄与していると言われる。
そういう意味では、エイズは病気ではない。人類の進化なのだ。


前世紀末、エイズ患者のほとんどは、アフリカ大陸南部の貧しい部族民か、
肛門性交を行うゲイか、注射器を使い回す麻薬中毒者であった。
つまり社会の最下層に属す人たち。
革命や進化は常に、カウンターカルチャーで起こるのだ。


すべての人類がエイズに感染した世界を想像するがいい。
人は時間の大切さを知り、必死に生きることの大切さを知り、争いの醜さを知るだろう。
安らぎを知り、優しさを知り、愛を知るだろう。
それが人類に訪れるべき「進化」以外の何者だと言うのだ?



この物語でも、エイズに罹患して進化した人たちは、まるで HIV そのものであるように振舞う。
ルチアーノは自分と他人を区別せず、大いなる愛の中で世界と一体化する。
エイズは神の罰なんかじゃない。神の愛だ」