「愛」と「自己犠牲」と「甘やかし」の違い。

ギ・ド・モーパッサン「脂肪の塊」1880

脂肪のかたまり (岩波文庫)

脂肪のかたまり (岩波文庫)

19世紀ヨーロッパ。普仏戦争プロシア軍に占領されたフランス。
敵軍の統治下であるルアン市を抜け出し、安全なル・アーブルへ向かう乗り合い馬車があった。
馬車に乗り合わせたのは、ブルジョア、貴族、愛国主義の革命家、修道女、娼婦。
まさに、人間社会の様々な階級の縮図である。


大雪のため、遅々として進まない馬車。
戦時下故に食料の調達がままならず、飢える乗客達。
ただ一人弁当を持参していた娼婦は、同乗のよしみと、全ての人々に食べ物を分け与える。
最初は娼婦を軽蔑して、食べ物に手を付けなかったブルジョア達も、
最終的には空腹に負けて箸を付け、彼女に感謝の言葉を口にする。


この丸々太った娼婦のあだ名が「Boule de suif(脂肪の塊)」である。


こうして馬車の旅を続ける一行であったが、目的地の途中の宿で、プロシア兵から足止めを食ってしまう。
士官に対しなぜ出発させてくれないのかと詰め寄っても、
「出発させたくないから出発させないのだ」と要領を得ない答え。
実は士官が求めていたのは、ブール・ド・シュイフの身体だったのだ。
愛国心から敵軍の将には指一本触れさせなかった彼女であったが、
それならばこの道は通さない、という子供じみた嫌がらせを受けたのであった。


人々は、彼女一人のわがままで自分たちが巻き沿いになるのはおかしい、と娼婦を責め立てる。
首を縦に振らない彼女に対して、「献身という崇高な目的の為なら、どんな手段も神様はお許し下さる」と説く。
その哀願に「脂肪の塊」はとうとう陥落する。
しかし、敵軍の将に身体を許した彼女に待っていたのは、感謝や栄光ではなかった。


「脂肪の塊」の取った行動は、悲愛国的で、風紀上汚らわしい行為であるとして、乗客達に蔑まれ、忌み嫌われてしまうのだ。
ブルジョアたちのエゴイズムによって傷付けられた「脂肪の塊」が、恥辱に塗れて泣き叫ぶシーンで物語は終わる。



売春婦の美しい献身と、ブルジョアたちの醜いエゴイズムを対比して書ききったという点で、名作の誉れ高い作品である。
確かにブルジョア達の怖ろしい所業は、人間の一番汚い部分を描いており、思わず目を背けたくなる。
しかし、「脂肪の塊」が見せた自己犠牲は、真の献身だと言えるだろうか?
そこに真実の愛は存在したのだろうか?



彼女の愛が本当に強かったら、周囲の人々の為に身を投じた時点で大きな悦びに包まれ、
その後の周囲の評価など耳に入らないだろう。
彼女の行動は、周囲の賞賛と感謝を求めた打算だったのではないか?
であれば、やはり彼女の行動は恥ずべき行為だったのではないかと言わざるを得ない。


僕は何も、売春婦が恥ずべき職業だと言いたい訳ではない。
全ての職業は必要とされているから職業となるのだ。そこに貴賎は無い。
自分の職業に誇りを持つのであれば、
相手が敵国の士官であろうと、浮浪者であろうと、ライ病患者であろうと、ボイコットしてはならないと僕は思う。



愛は、自己犠牲によく似ている。
甘やかすことにも似ている。
実際よく間違えられる。
しかし、愛にはまごうことなき印がある。
その印を見逃してはならない。


例えばこんな寒い日に、君が恋人と歩いていたとする。
恋人は寒そうにしている君を哀れんで、


1.自分のコートを脱いで着せてくれた(彼は寒そう)
2.50万円の毛皮のコートを買ってくれた(彼は金持ち)
3.はめていた手袋を片方渡してくれ、もう片方の手は繋いでくれた


さて、本当の愛はどれだろう?



愛とは、アガペーであれ、エロースであれ、相手を崇高な存在に引き上げることが出来るものである。
その結果として、自分も高い存在へと引き上げられる。
お互いを強い愛で結べば、二人は遥かな高みへ達することが出来る。


もし、「脂肪の塊」の献身が、本当の愛であったなら。
きっと、馬車の乗客達も汚辱に塗れた存在から脱却し、楽園へと達することが出来たであろう。
馬車は空を駆け、フランスもプロシアも無い、永遠の世界が姿を現したであろうと思うのだ。