死者とのコミュニケーション。

佐藤愛子「冥途のお客」2004

冥途のお客 (文春文庫)

冥途のお客 (文春文庫)

死んだ主人がそばに来ているとしたら、それは成仏していないということになりますね。
死後四十九日の間は魂は現界にいますがね、四十九日を過ぎるとその後はそれぞれ、行くべきところに行くんです。
(中略)
あの世つまり四次元世界では幽界と霊界があり、その上に神界があるそうですよ。
幽界はおよそ上、中、下の三段階に分かれていますが、人が死ねば大体はまず幽界の下層に入りますね。
その後、魂の修行を積んで、だんだん上に上っていく人(魂)もあれば、いつまでも同じところにいる場合もあります。
幽界の上部まで行くとその上に霊界があり、そこもまたおよそ三段階に分かれています。
我々凡俗が死ぬとまず幽界の入り口あたり、幽現界という所でうろうろしていてから幽界へ行きますが、死後の行き先はそこだけではないんです。
幽界の下には地獄があるんです・・・・・・。

連日、死のことについて書いている気がする。
昨年、身近な人を亡くして、死についてよく考えるようになったからかもしれない。
佐藤愛子の言う通り、死後の世界はあるのかもしれない。
あるいは死んだらそこで終わり、何も無いのかもしれない。


人間は冥土へ旅立った死者とコミュニケーションを取れる、唯一の生物である。
「死者とのコミュニケーション」と言っても、この本に出てくるような超常現象、心霊現象のたぐいの話だけではない。
人は誰かが死ぬと葬式を挙げる、ということだ。


身近な人を亡くした時、僕たちは死者を冥土へと送り届ける儀式をする。
そのような儀式を持たない国、民族、宗教、社会集団は存在しない(たぶん)。
葬儀が必要とされているのは、僕らが常々、死者とコミュニケーションを取りたいと感じているからだ。


死者を正しく冥土へと送り届けないと、死者は生者を祟る(と、信じられている)。
祟りとは、言わば死者から生者へのメッセージである。
もちろん祟りだけでない。
雨が降っても、風が吹いても、雲間が切れても、
花が咲いても、鳥が鳴いても、犬が吠えても、
下駄の鼻緒が切れても、停電が起こっても、
昨日までちゃんと閉まった襖が急に動かなくなっても、
残された人々はそれを、死者からのメッセージと考える。


生者もまた、死者に対してメッセージを送る。
顔を覗き込み、話し掛け、お経を唱え、手を合わせ、贈り物をし、化粧を施し、身体を洗う。
あたかも、死者がまだ生きているのかのように振舞う。



もちろん、死者とのコミュニケーションは困難を極める。
死者は生者とは異なる言語を使用しているので、その言葉は耳に聞こえない。
こちらの言葉も、伝わっているのか分からない。
生者と死者の立場は絶望的に断絶しているのだ。


しかし、実はコミュニケーションというのは、お互いの立場が断絶していることで初めて成立する。


水は高いところから低いところへ流れる。
高さがゼロに達するまで、その落下は続く。
熱は温度の高いところから低いところへ移動する。
部屋全体の温度が同じになったところで、熱の移動は終わる。


コミュニケーションだって、全く同じだ。
情報は多いところから、少ないところへ流れる。
構成員の全てにその情報が伝わった時、コミュニケーションは終了する。


熱力学第二法則が示すように、エントロピーは増大に向かう。
エントロピーが極限まで増大すると、情報もエネルギーもその価値を失う。
実存主義や、構造主義ポストモダンの考え方が、「常識」となってその役目を終えたように。



エントロピーなんて言ったって文系の人には、僕が何を言っているのか分からないだろう。
また、構造主義なんて言ったって、理系の人には分からないかもしれない。


しかし「君の言っていることがよく分からない」という状態こそが、コミュニケーションの契機となる。
逆に「お前の言いたいことはよく分かった」という言葉が発せられると、そこでコミュニケーションは途絶する。



立場の断絶こそが、コミュニケーションを成立させる。
だから、死者と生者の対話のあり方は、人間社会のすべてのコミュニケーションの基礎となりうる。


人は死者(あるいはそこに居ない人)に対して必死に話しかける。
聞こえるはずのないメッセージにひたすら耳を傾ける。
彼らに見られても恥ずかしくないような生活を心がけ、理解できるはずのない、彼らの心中を慮る。


それは太古から延々と続く、生者と死者とのコミットメントなのである。