死だけが人を自由にさせる。

シモーヌ・ド・ボーヴォワール人間について」1944

人間について (新潮文庫)

人間について (新潮文庫)

紀元前三世紀のエピロス王であったピュリウスは、側近のシネアスに対して言う。
「まず手はじめに、ギリシアを征服しよう」
シネアスはそれに答えて
「ではその次には?」
「アフリカを手に入れよう」とピュリウスは答える。


「アフリカの次は?」
「アジアに渡って、中央アジアを、アラビアを侵略しよう」
「では、その次には?」
「インドまで行こう」
「インドの次には?」
「インドを征服したら、休息しよう」


その言葉にシネアスは重ねて聞く。
「・・・なぜ、今すぐ休息なさらないのですか?」



ボーヴォワールは上のような会話を取り上げ、この会話に、人間の実存に関する本質が隠されていると指摘する。


ピュリウスは何も、休息するために出発するのではない。
家に戻ってくることを目的に家を出て行くのでもない。
彼は、征服するために故郷を後にするのだ。


人間存在は、自分の目的に向かって、未来の方向へ自分を超越させることによって成立している。


ギリシアの次にアフリカ、アフリカの次にアジア・・・と、
際限なく自己を超越していくことによって初めて、人は存在するのである。


だから、ハイデッカーと共に言ってはいけません。
人間の正真正銘の計画、それは死ぬために存在していることである、と。
死がわれわれの本質的な目的である、と。
死ということの最後の可能性を逃避するか、仮定するかのどちらか以外、人間にとって選択は無いのである、と。
ハイデッカー自身によれば、人間には内面性はなく、人間の主観性は、客観世界への参加によってしか現れない、
物事に働きかける行為によってしか選択はない、と言うのです。
すると、人間が選択するとは、人間が行為することであります。
人間が計画するとは、人間が打ち建てることであります。
ところで、人間は死を行為しません。死を打ち建てません。
つまり、もともと人間は、死ぬようにできているのです。
そして、この存在は明らかに死ぬために存在していると、ハイデッガーは言う権利を持っていません。
存在しているということは無償なのです。人間は無のために存在しているのです。
むしろ、この場合、ためにという言葉はなんら意味をなしません。
存在は、それが目的を課する以上、計画的であると、ハイデッガーは言います。
しかし、存在であるかぎり、存在は何らの目的も課しません。
つまり、彼(存在)は存在しているのです。
彼の存在を、ために存在しているものとして決定するのは、計画のみであります。
他の目的と違って、死ということの最後の目的は、いかなる行為によっても目的として決定されないということを、
ハイデッガーも認めています。
人間を死のほうへ投げるあの果断な決心は、人間を自殺するように導くのではなくて、
ただ、死と「向かい合って(アン・プレザンス・ド)」生きるように導くにすぎません。

死と向かい合って生きる時、人は本当の自由を得る。


人には誰にでも、等しく死が訪れる。
人間は死によって限定された存在だということだ。
しかし、「制限がある」ことと「自由である」ことは、相反しない。
モーセ十戒」も、「日本国憲法」も、人間をより自由にするための知恵だ。
「何を描いてもいいよ」と白紙を渡されると、何も描くことが出来なくなってしまうように、制限の無いところには、自由も無い。


人は自ら死を選ぶことは出来るが、「不死」を選択することは出来ない。
自殺するのでなく、死と向かい合って生きる時、人は選択肢の無い状態に置かれるということだ。



逆説的なことを言うようだが、自由とは、実は、その「選択肢の無い状態」なのだ。


イモラ・サーキットを独走するアイルトン・セナも、
ウッド・ストックでアメリカ国歌を弾き狂うジミ・ヘンドリックスも、
自分の耳を切り落としながら自画像を描くヴァン・ゴッホも、
その瞬間、「真実の自由」を感じていたはずだ。


それは、哀しいくらい、他に選択肢の無い自由だ。
彼らは等しく「死」へ向かう大きな自由をその手に有している。



そして他者は、真の自由を得た者に対してどのような働きかけを行ったとしても、その自由性を奪うことは出来ない。
例え投獄しても、あるいは刑死させても、彼は自由のままでいる。


善く生きる道を選んで毒杯を呷ったソクラテスが、悪法によって死ぬことを嘆いたろうか?
ガリア全体を征服しながら寛容の精神で統治したユリウス・カエサルが、その寛容によって暗殺されたことを悔いたろうか?
ゴルゴダの丘で十字架に磔られたイエス・キリストが、人類全ての罪を背負って死ぬことを重荷に感じたろうか?

それが例え不慮の死であったとしても、その死が明日ではなく、今日であったからといって嘆く必要は無い。
彼らは死さえも超越することで、大きな自由を手にしているのだ。
死だけが、人を自由にさせる。