「大事なものは目に見えない」なんて嘘だ。

パウロ・コエーリョ「ベロニカは死ぬことにした」1998

ベロニカは死ぬことにした (角川文庫)

ベロニカは死ぬことにした (角川文庫)

ベロニカは死ぬことにした。
ベロニカには若さも美しさもあり、仕事も、家族も、ボーイフレンドもあった。
借金があったわけでも、失恋をしたわけでも、不幸だったわけでもなかった。
ただ漠然と、自分と世界との間に壁があり、隔絶されていると感じていた。


ベロニカは大量の睡眠薬を飲み、退屈な人生に別れを告げた。
しかし、次に目覚めたのは天国ではなく、精神病院の中だった。


自殺に失敗してしまったベロニカであったが、
精神病院で日々を過ごすうちに彼女の中で何かが変わり、
生きることの意味を理解し始めた―――。



ベロニカは今まで、あらゆる欲求を無意識のうちに抑制しながら生きていたことに気付く。
その見えない壁を取り払い、自らの欲することをそのままの形で解放させることにより、
生の中に、真実の歓びや快楽、愛があることを発見する。


全力でピアノを弾き終えた翌日、鬱病で入院しているゼドカに言う。
「きのうの夜、人生で初めて、自分がしていることを全く制御できない状態で、
 指から音符が放たれていくのを感じたわ。ある力がわたしを誘って、
 自分が弾けるとも思わなかったメロディやコードを生み出していたの。
 わたしは、自分を完全にピアノに捧げたわ。
 髪の毛一本にも触れられることはなかったのに、
 わたしはこの人に自分を差し出していたから。
 きのうは本当の自分じゃなかったわ。
 セックスに身を投げ出した時も、ピアノを弾いていた時もね。
 そしてそれでもわたしは、やっぱりわたしだったんだと思うわ」


ゼドカは答える。
「きのう、あなたが体験したような瞬間を、一生探し求めても、
 絶対に到達できない人もいるのよ。
 だからもし、あなたが今死ぬことになっても、愛で胸がいっぱいのまま死ぬことになるわ」



19世紀、ジークムント・フロイト博士が看破したように、
人間の心には無意識という領域が存在する。
(「無」意識が「有」るという言い方もおかしいが)
フロイトの主張することには、我々のあらゆる欲望は、無意識の中に抑圧されている。


これは反論不可能な命題だ。
「抑圧されている欲望なんて無い!」と主張しても、
「抑圧されているんだから意識されないだけだ」と反論されるだけだ。
一方で「抑圧された欲望」というのは目に見えないので、存在を証明することも出来ない。


証明も反論も出来ないものは、科学と呼ぶのに相応しくない。
しかし、その無意識の中に抑圧されている欲望とやらを解き明かすことによって、
精神病がたちどころに治ってしまうのだから、無下に否定するわけにもいかないのだ。



現にベロニカは、「普通にしなければいけない」という壁を無化することによって、
涙が止まらなくなる程の解放感を得る。


ベロニカはその壁を「乗り越えた」わけではない。
「打ち破った」わけでもない。
「そこに壁なんてない」ということに「気付いた」だけだ。


・人生には乗り越えなければならない壁がある
・努力して、試練を克服しなければならない
・目的を達するために、忍耐をするべきだ
・昨日よりもいい自分に、今日よりもいい自分になるために、精一杯のことするべきだ
・後悔などするべきではない


これらはみんな嘘だ。幻想だ。うんざりだ。


ゆとり教育」を目指した当時の文部省には、
「子供たちは過酷なカリキュラムに追われているから、豊かな生活を得ることができない」
という幻想があった。
目に見えない抑圧がそこにあり、それを取り除けば自由に羽ばたくことができる筈だ、と考えたのだ。
それもやはり幻想だった。
ゆとり教育の失敗は、火を見るよりも明らかだ。



人生に壁なんか無い。目に見えない抑圧なんて捨て去ってしまえ。
「大事なものは目に見えない」なんて嘘だ。
大事なものは、みんなその目に映る。
見え、聴こえ、触れられるものだけが真実だ。


その五感で捕らえた真実は、それを補足した心と同一化する。
そこには内面も外界も無い。
自分は世界になり、世界は自分になる。
宇宙全体を所有した時、壁のない地表が眼前に表出する。
それがベロニカが見付けた真実の瞬間なのだ。