脱ぎ散らかした靴下の中にあるもの。

スコット・フィッツジェラルドマイ・ロスト・シティー」1920-40

マイ・ロスト・シティー (村上春樹翻訳ライブラリー)

マイ・ロスト・シティー (村上春樹翻訳ライブラリー)

彼女がそう口に出してから、彼の視線の先にあるものが酒壜でないことに気づいてはっとした。
彼が眺めている場所は、昨夜彼が酒壜を投げつけたあの片隅だった。
彼の弱々しく反抗的に見える整った顔をじっと眺めたまま、彼女はそこに目をやることもできなかった。
彼の眺めているその片隅に立っていたのは死そのものであったからだ。
彼女も死というものを知らぬわけではなかった。
耳に聞いたこともあれば、そのまぎれもない匂いをかいだこともあった。
しかし人間の体にまだ入り込まぬ独立した死に出会ったのははじめてのことだった。
この人はバスルームの片隅にいる死そのものをいま眺めているんだ。
そして死はそこに立って、弱々しい咳をしては、唾をズボン吊りになすりつけているこの男をじっと見つめているのだ。
まるでそれが彼の最後の動作の証しでもあるかのように、ズボン吊りはしばらくの間こわばりながら光っていた。

〜「アルコールの中で」より


死というものは、生の対極にあるものではない。
生の中であちらこちらに偏在しているものだ。


この物語に出てくる看護婦が、「昨夜彼が酒壜を投げつけたあの片隅」に死が立っているのを感じたように、
死はいつも僕らの傍に寄り添っている。
時に誘惑し、時に匂い立ち、僕らにその存在を知らせる。


アルコールの中にはもちろん、朝日にキラキラと輝くほこりの中にも、
使い古したお茶っ葉の中にも、脱ぎ散らかした靴下の中にだってそれはある。


僕らは彼女と同じように、死をその耳に聞いたことがある。
まぎれもない匂いをかいだこともある。
あまつさえ、生の中にあって、死を体験することもしばしばある。


何も「臨死体験」や「仮死」と言ったような特別な例のことを言っているのではない。
例えば、眠り。
僕らは毎晩ベッドで眠りに就く。
それはまぎれもなく、死の予行演習である。


人は死と一体化する時、大きな快楽と安心感を得る。
胎動する母体で、揺りかごで、ブランコで。
水族館で、サウナで、花火大会で。
ジェットコースターで、スポーツで、セックスで。
ドラッグで、タバコで、アルコールで、宗教で。
ゆらゆらと揺られながら人は我を忘れる。
万能感と幸福が支配する王国で、タナトス神と秘密の契約を結ぶ。


それらは全て、生の中にある小さな死である。
人はいつも、死へ至る快楽に魅せられながら生きているのだ。