「死」の反対語は、「生」ではない。

池田満寿夫エーゲ海に捧ぐ」1977

エーゲ海に捧ぐ (中公文庫)

エーゲ海に捧ぐ (中公文庫)

池田満寿夫は、当時の日本のアーティストにおいて、
唯一「エロティシズム」の何たるかを知っていた人だと思う。


「エロティシズムとは、死に至る生の高揚である」と、J.バタイユは言った。
「死」の反対語は、「生」ではない。
「死」は常に、「生」の中にあるのだ。
例えば、僕らは毎晩ベッドで眠りに就く。眠りは死の予行演習だ。
ジェットコースターによる眩暈も、アルコールによる酩酊も、ドラッグによる麻痺も、
セックスによる恍惚も、宗教による諦観も、生の中にある小さな死である。
胎児は揺れる胎盤で、乳児は揺りかごで、幼児はブランコで、少年はジェットコースターで、
青年はドラッグで、壮年はタバコで、中年はアルコールで。
人はいつも、死へ至る快楽に魅せられながら生きている。


そして快楽にはいつも、背徳的な罪悪感が憑いてまわる。
快楽とはエントロピーの増大、つまり秩序の破壊と等しいからだ。
僕らの生命は開放系だ。
外部から栄養分や酸素を吸収し、内部から老廃物や二酸化炭素を吐き出すことで、
その秩序を保っている。
秩序を破壊し、生命のリソースを蕩尽することが、すなわち「エロティシズム」なのだ。