メコン河を流れるエクリチュール。

マルグリット・デュラス「愛人(ラマン)」1984

愛人 ラマン (河出文庫)

愛人 ラマン (河出文庫)

この物語の語り手、マグリット・デュラスには、自分で「とても気に入っている像」がある。
それは写真に撮られることは無かった、ある「絶対的な映像(イマージュ)」である。


舞台は1930年頃の仏領インドシナ(現ベトナム)。
滔々と流れる幅広いメコン川を渡る渡し舟。
渡し舟の上には大型バスと、黒塗りの高級乗用車。
少女は男物の紫檀色のソフト帽をかぶり、足には金ラメのハイヒールを履いて、
大型バスの中から、高級乗用車を見ている。
乗用車からは一人の上品な中国青年が降りてきて、こちらに近付いてくる。


これが「わたし」の「絶対的な映像(イマージュ)」の全てである。
この後、少女は青年の愛人となるのだが、それはいわばオマケ。
この映像を物語るが為に、この本は書かれたのだ。



きっと誰の脳裏にも、自分の人生を象徴してしまうような、
「絶対的な映像(イマージュ)」がある。


それは静かな朝焼けの雲かもしれないし、稲妻鳴り響く嵐の空かもしれない。
陸上競技のゴール直後の涙かもしれないし、交通事故に遭った瞬間の血かもしれない。
朝食に飲んだコーヒーのカップの底かもしれないし、誤って手を放してしまった風船かもしれない。


しかしそれら映像にはひとつの共通点がある。
それが自分の人生を象徴するような重要なイマージュだなんて、
その時には全く気付いていないと言うことだ。



デュラスは、語り続ける。
原始の姿のままに美しく流れ、やがては大海原へと下ってゆくメコン河のイメージそのままに。


愛人である中国青年のことだけでなく、家族のことも流れるように話し出す。
母の盲目的な愛をその一身に受け、その一方で弟や妹にはひたすら暴力的な「上の兄」。
上の兄から暴力により抑圧されながら、妹からはひたむきな愛情を注がれる「下の兄」。
そして、善意に満ち溢れながらも、しばしば狂気と絶望に捕らえられる「母」


彼女は書く。

いまでは彼らは死んでしまった、母とふたりの兄は。
追憶も、もう手遅れなのだ。いまではわたしはもう彼らを愛してはいない。
以前に愛したことがあったか、それもわからない。わたしは彼らからはなれた。
母の肌の匂いも、もう覚えていないし、母の眼の色も、もう眼に浮かばない。
声も、もう思い出さない、ただときどき、夕方の疲労感とともに、
優しさにあふれた声がよみがえるだけだ。
笑い声、もうそれも耳に戻らない、笑い声も、叫び声も。
もうおしまいだ、もう思い出さない。だからこそ、今は母のことを、
じつにすらすらと書いている、こんなに長く、こんなに引き伸ばして、
母は流れゆくエクリチュールとなってしまった。


エクリチュール」なんてフランス語は、ついぞ使ったことが無い。
こんな言葉を普段使うのは、ジャック・デリタを研究している哲学科の学生ぐらいのものだ。
無理やり日本語に直せば、「文字」とか、「文体」というところか。
しかし、それでは上の文章の意味が通らない。


デュラスはこの言葉に、罪深き母や兄をも、何も差別せずに押し流す、
メコン河をイメージしたのだろう。
支流に入り、本流に戻り。
ある時は雄大に、ある時は大地が傾いているかのように荒れ狂うメコン河。
それが彼女の人生を象徴する絶対的な映像(イマージュ)なのである。