飛べ、ジョナサン!

リチャード・バックかもめのジョナサン」1970

かもめのジョナサン (新潮文庫 ハ 9-1)

かもめのジョナサン (新潮文庫 ハ 9-1)

かもめのジョナサンリヴィングストンは、ただ食べ物だけを追い続ける仲間を尻目に、
日々、いかに速く、いかに美しく飛ぶかを研究する。
飛ぶことの歓びを知ったジョナサンは、異端のレッテルを貼られ、群れから追放される。
しかし彼はそれでも飛ぶことの意味を追い続け、やがて自由と愛とを獲得する。

無責任ですって?聞いてください、みなさん!
生きることの意味や、生活のもっと高い目的を発見してそれを行う、
そのようなカモメこそ最も責任感の強いカモメじゃありませんか?
千年もの間、われわれは魚の頭を追い掛け回して暮らしてきた。
しかし、いまやわれわれは生きる目的を持つにいったのです。
学ぶこと、発見すること、そして自由になることがそれだ!

その通りだ、ジョナサン、そんなところなどありはせぬ。
天国とは、場所ではない。時間でもない。
天国とはすなわち、完全なる境地のことなのだから。

よいか、ジョナサン、お前が完全なるスピードに達しえた時には、
お前はまさに天国にとどこうとしておるのだ。
そして完全なるスピードというものは、時速数千キロで飛ぶことでも、
百万キロで飛ぶことでも、また光の速さで飛ぶことでもない。
なぜかといえば、どんなに数字が大きくなってもそこには限りがあるからだ。
だが、完全なるものは、限界をもたぬ。完全なるスピードとは、よいか、
それはすなわち、即そこに在る、ということなのだ。

お前が望むならば、時間のほうの研究を始めてもよい。
そうすれば、お前は過去と未来を自由に飛行できるようになる。
そしてそこまでゆけば、お前はもっとも困難で、最も力強く、
かつ最もよろこばしい事柄のすべてと取り組む用意が出来たといえるだろう。
そしてお前はそのとき、より高く飛びはじめ、また優しさと愛との
真の意味を知り始める用意ができたことになるのだ。


なんとスピリチュアルで、なんとサイケデリックで、なんとオリエンタルだろう!
1960-70年代にヒッピー・ムーブメントが大輪の花を咲かせていた時代、
彼らのバイブルと呼ばれた所以はここにある。



正義無きベトナム戦争が泥沼化し、先の見えない閉塞感の中で、
大規模なロックフェス、フリーセックス、大麻LSDによる精神解放、
愛と平和が叫ばれた、あのサマー・オブ・ラブ


若者たちは懲役を忌避して、反戦運動へと走る。
貨幣文明や、伝統的なキリスト教的価値観は、人間性を損ねるものとして否定される。
ビートルズはインドへ巡礼へ行き、東洋の思想・宗教が広く紹介され、
多くのカルト宗教が創設される。


自然への回帰を目指して、自分たちだけのコミューンを設立し、
身体も洗わず、ヒゲも剃らず、ボロをまとって、
農業と演劇と音楽とドラッグとセックスだけに明け暮れるヒッピーが現れる。


ルネサンス運動が興った14〜16世紀の中世ヨーロッパにも
同じような社会背景があった。
キリスト教の腐敗、異端排斥、魔女裁判
封建主君の乱立により課せられた重税、
サラセンの海賊の襲来、ペストの流行などにより、
地に落ちた人間性の復興が叫ばれたのである。


ルネサンスが、その役割を終えて終焉したのと同じように、
ヒッピー・ムーブメントもベトナム戦争終結を機に収束に向かう。



ヒッピー・ムーブメントは、完全勝利で(すなわち全人類がヒッピーになって)、
終焉を迎えた訳ではない。
当局の攻撃によって皆殺しにされた訳でもない。
単に街が恋しくなってコミューンをほったらかして帰ってしまったのだ。


フリーセックスにより子供が出来て、働かざるを得なくなった、という事情もある。
中には生まれた子供たちを、「コミューンの子」として集団で育てようと
考えた人も居たが、時代の流れには逆らえず自壊していった。



そしてこの小説、「かもめのジョナサン」もまた、
同じ理由でバイブルとしての役目を終える。


ジョナサンは、空間、時間、自己の限界を超越して飛ぶかもめである。
自由を求め、愛を与え、
食べることではなく、飛ぶこと自体に意味を求め続ける崇高なかもめである。


しかし、ジョナサンもいつか考えなければならない。
今日のご飯をどうするのか、明日の子供の養育費をどうするのか、
年老いたらどう生活するのかということを。
女性の出てこない小説、「かもめのジョナサン」に欠ける視座はそこにある。
その欠点により、今日性を失っているのだ。



それでも僕は言いたい。
飛べ、ジョナサン!
スピードを超えて、自己と世界の境界を跨ぎ、自由を求めて。