漢字の読めない偉大な読書家。
高橋源一郎「優雅で感傷的な日本野球」1988年
- 作者: 高橋源一郎
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2006/06/03
- メディア: 文庫
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スタジアムには試合の間中、ずっと下を向いて本を読み続ける男がいた。
その隣には、漢字を読み飛ばして、平仮名だけを朗読する女がいる。
しかし、ほんとうにこの女は漢字を読めないのだろうか?
俺の前でだけ、漢字を読めないふりをしているんじゃないだろうか。
陰謀の匂い。
いままで読んだ本ではそんな女に出くわしたことがなかった。
漢字を読めない女なんて。まるで字が読めない女ならいた。
しかし、平仮名が読めれば少しは漢字だって読めるもんだ。
このまま漢字を読めない女と結婚することになるんだろうか。
漢字を読めない以外にはどこといって欠点がない。
漢字を読めない以外は普通の読書好きだ。
いや、漢字を読める人間でもこの女ぐらい読書が好きなのは滅多にいないぞ。
なにしろ、おれが読んでる時には必ず横にきて一緒に読んでるんだから。
それも平仮名だけ。
漢字が読めないからお前とは結婚しない、そんなことがおれに言えるだろうか。
そんな酷い仕打ちがおれにできるだろうか。「わけても、としているのが、という、である。
ではそうではなく、においては、とも、であるかもしれない。
もっとも、として、であるというよりも、そう、える、である。
で、や、を、じる、たちは、に、を、ただちに、できるかのように、っているのだ」
こんな読み方で、果たして楽しいのだろうか?
と思うだろうが、いや、これでいいのだ。
読書の楽しみ方は十人十色。誰もが同じように読む訳ではない。
彼女だって、平仮名だけで充分に楽しんでいるのだから、それを批判する資格は誰にも無い。
むしろ誰にも真似出来ないような楽しみ方をしているという点で、とても偉大な読書家だと言える。
ただ字面を追って、文章に書かれている意味の通りに解釈しているような僕の読み方なんて、まさに平々凡々、つまらない読書法である。
逆に漢字だけ読んだり、後ろから読んだり、出てくる「も」の数を数えたり、
行間を使って迷路を楽しんだり、破って鼻をかんだり、脇に挟んで奇声を上げたり、
僕らにはもっと、いろいろな読書の楽しみ方が許されてもいいはずなのだ。
そしてこの本は、まさにそのような様々な読書法を試すのにピッタリの良書であることは間違いない。
何と言っても嘘しか書かれていない、という点が自由な解釈を行うにはとても好都合。
ストーリーと呼べるものもないので、好きな箇所から読み始めても一向に差し支えない。
煮るなり焼くなり好きにしろ、という感じだ。
この本の筆者である高橋源一郎だって、きっと文句は言えないはずだ。
なぜなら、この作品では野球が、まさにそのように扱われているからだ。
さて、野球史上もっとも偉大なバッターの一人である高木豊は、わたしたちが生きているこの世界、リアル・ワールドを次の二つに分類している。
(1)ホームベース上にある、バッターの肩から膝までの空間(すなわちストライクゾーン。ほら、わたしが描いた犬小屋みたいな三次元の図形だよ)
(2)それ以外の全て
この五角柱の見えない空間は、手で触れてはならない空間だ。
ルール上、ストライク・内部でのデッド・ボールは、ストライクと見なされるからだ。
(中略)
そして晩年には、高木豊はストライク・ゾーンを持ち歩けるまでになったと言われている。
バーに入ってからの高木豊の口癖は「ぼくにはバーボン・オン・ザ・ロック、 ぼくのストライク・ゾーンにはギムレットを」だった。
こうして高橋源一郎は想像上にしか存在しない日本野球について語りながら、
日本人の心の秘密に、ひいては日本文学の謎に肉薄する、というアクロバットを演じる。
日本野球が優雅で感傷的であるならば、それは日本人の心と、日本文学が優雅で感傷的だということだ。
ちなみに高橋源一郎は、この作品で三島由紀夫賞を受賞した。
その時の賞金100万円は競馬につぎ込んで一瞬で消えてしまったらしい。
消えたのはいいけど、競馬じゃなくて野球に使えよな、まったく・・・。