カタストロフィの嵐。

島本理生「リトル・バイ・リトル」2003

リトル・バイ・リトル (講談社文庫)

リトル・バイ・リトル (講談社文庫)

最終の電車で彼女は帰ってきた。
そのとき、私はベッドで童話を読みながら妹のユウちゃんを寝かしつけていた。
古いけれど干したばかりの布団を敷いた狭い二段ベッドは日だまりの巣箱のようだったが、
彼女の帰宅であっという間に平和な夜は破られた。

上のような書き出しで始まる、思春期の女の子の日常を書いた小説。
筆者はこの時、弱冠20歳である。



3日に1度、こうして読んだ本のレビューをアップしている通り、僕はいつも本を読んでいる。
電車の中ではもちろん、仕事中の休み時間でも、1分しか無いエレベータの中でも、空いた時間には必ず何かを読んでいる。
そんなに読めないと分かっていても、常に3冊は持ち歩く。
何かのはずみで手持ちの本を全部読み終わってしまった時に、手帳の付録の単位換算表を読んでいたこともある。
もはや「趣味が読書」とかそういうレベルではない。重度の活字中毒である。
吊り広告でも、缶ジュースの成分表でも、電話帳でも、この際活字だったら何でもいいのだ。


「どんな言葉にも言ってしまうと魂が宿るんだよ。言魂って言うのは嘘じゃない。
 書道だって同じことで、書いた瞬間から言葉の力は紙の上で生きてくる。
 そして、書いた本人にもちゃんと影響するんだよ」


この小説に出てくる書道教室の柳先生が言う通り、言葉には力がある。
呪いは効くし、祝いは通じる。
僕は言葉の力を信じている。



職場では「そんなに本を読んでて、自分で書きたいと思うことは無いの?」とよく聞かれる。
「いやぁ、思ったことないですよ。小説を書く才能は無いです」
僕は大抵、笑って誤魔化す。


でもこの際本当のことを言ってしまおう。
笑って聞け。
僕はこの10年、ずっと小説を書きたいと思い続けているんだ。


何も作家として生計を立てたいわけでも、有名な賞が欲しいわけでもない。
ただ、僕の中にあるモヤモヤを、あるいは皮膚に貼り着いているネバネバを、みんな吐き出し削ぎ落として、すっきりと昇華させたいのだ。



ところがこれが一行だって書けない。
題名すら決められない。
残酷な話だ。


小説なんて20歳の女の子にだって書ける。
島本理生は言葉も知らないし、修辞技法も知らないし、ため息の出るような美文が書けるわけでも無い。
ただ、正直に、誠実に、シンプルに、雨が降ったら「雨が降った」と書いてあるだけだ。
素晴らしい才能だと思う。



「カタストロフィ」という言葉をご存知だろうか。
あるものに少しずつ力を加えていくと、ある瞬間に劇的な変化を生じさせることがある。
水を少しずつ冷やしていくと、摂氏0度になった瞬間に凍りつく。
蛹(さなぎ)の姿で冬を過ごした幼虫が、春のある瞬間に突然蝶になる。
超新星爆発も、活断層地震も、座禅による悟りも、カタストロフィによって引き起こされているのだ。


母親が毎日話し掛けることにより、2歳位の赤ちゃんが、ある日突然、堰を切ったように喋り出す。
僕も、今は静かにカタストロフィの訪れを待っている。
何をするにも長い時間が掛かって、みんなをイライラさせる僕だけど、ごめん、もうちょっと待ってくれ。
もう少しだけ僕から目を離さないで欲しいんだ。


春はもうすぐ。
カタストロフィの嵐が、多くの花を咲き乱れさせるだろう。